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2018/03/21

菅野 直人

ミリタリー偉人伝「大艦巨砲主義を否定し続けた過激な航空優越論者、ウィリアム・ミッチェル」

飛行機から投下される兵器によって、いかなる軍艦でも撃沈可能」という説は第2次世界大戦で証明されましたが、それ以前の「大艦巨砲主義」時代には宗教的なまでの戦艦優越論が主流でした。そこで「飛行機で戦艦を撃沈可能」を証明したのがアメリカ陸軍航空隊のウィリアム・ミッチェル准将(当時)でしたが、その“パンドラの箱”を開いてしまったがゆえに、彼は異端者として糾弾されてしまうのでした……

大鑑巨砲主義を否定した男

Billy Mitchell.jpg
By USAF file photo – http://www.af.mil/shared/media/photodb/photos/020903-o-9999b-081.jpg
http://www.kirtland.af.mil/shared/media/photodb/web/2013/02/130220-F-AH330-001.jpg
Gallery: http://www.kirtland.af.mil/photos/mediagallery.asp?galleryID=2460&?id=-1&page=7&count=48, パブリック・ドメイン, Link

第2次世界大戦以前、飛行機による対艦攻撃のノウハウというのはまだまだ確立されておらず、「陸軍の地上部隊や海軍の艦隊を支援する」程度の任務しか与えられないことがほとんどでした。
もちろん魚雷や爆弾を搭載することは可能でしたが、“対空火器を揃えれば、空をフワフワ飛んでいる飛行機を撃墜することなど容易”である一方、“飛行機が搭載する兵器で決定的な打撃は与えられない”とされていたのです。

それなら技術の進歩で、対空砲火をかいくぐり強力な魚雷や爆弾を投下できる飛行機を作れるようになればいいじゃないか」と言ってしまえばいいのですが、大抵の人間は“今、目の前にある技術”しか認めません。

それなら証明すればいいんだろう、とばかりに立ち上がった男が、アメリカ陸軍航空隊のウィリアム・ミッチェル准将
彼は実際に飛行機で軍艦、それも主力戦艦を撃沈可能なことを証明してみせたのですが、その説があまりにも正しすぎたがゆえに、そして彼自身の性格もあって、以後は航空の先駆者として華々しい経歴をたどるどころか、不遇の余生を送ることになります。

しかし彼の名誉は後に回復され、その名を冠した飛行機は日本人にとって忘れられない出来事のひとつを巻き起こします。

第1次世界大戦への参戦と、重要な予言

Heinkel He 111H dropping bombs 1940.jpg
By 不明 – Royal Air Force Battle of Britain campaign diaries [1] photo [2], パブリック・ドメイン, Link

ウィリアム・ミッチェルは1879年フランス生まれ、アメリカはウィンスコンシン州のミルウォーキー育ち。
18歳で州兵に志願して二等兵からキャリアをスタートさせたのですが、23歳の時には米陸軍最年少の大尉となったので、かなり優秀な成績で出世階段を上っていたことになります。

その後いくつかのキャリアを経て、当初陸軍で飛行機を管轄していた通信隊に所属、1916年には飛行訓練を受け、陸軍パイロットとしての道を歩むことになりました。
翌1917年にはアメリカが第1次世界大戦へ参戦したので、ミッチェルも航空隊指揮官としてフランスに派遣されましたが、激戦の中で飛行機が急速に発達していたヨーロッパでの経験は刺激的だったのです。
さまざまな練習機や雑用機を使ってノンビリと実験的な運用が行われていたアメリカとは異なり、大戦以前の戦争から既に実戦参加を経ていたヨーロッパでは飛行機が既に重要な地位を占め、偵察や爆撃、それを迎撃する戦闘機と激しい空中戦が戦われていたのです。

その一方、地上での戦いは塹壕戦で敵味方とも行き詰まり、海上での戦いは“史上最大の戦艦同士の戦いジュットランド(ユトランド)沖海戦が行われたにも関わらず、これまた敵味方とも決定的な戦果を上げるに至りません。
もちろん、まだまだ技術的に未熟だった当時の飛行機にもそれらを変える力はありませんでしたが、急速な進歩とそれにつれ激しくなる空の戦いは、将来の戦争で飛行機が重要な役割を果たすという予感に、現実味を持たせるに十分だったのです。

ここでミッチェルは、派遣直後にひとつの重要な予言をしました。
イギリスはいつか、飛行機の大群による攻撃を受け、それに対して脆弱になるだろう。
その予言は23年後に“バトル・オブ・ブリテン(英本土航空決戦)”として現実のものとなり、イギリス空軍は苦戦しながら辛くもドイツ空軍を撃退することになります。

戦利艦のドイツ戦艦へ爆撃実験

また、ミッチェルにとっては、どれだけ強力な艦隊を揃えても、その攻撃力では戦争で決定的な役割を果たせない、単に相手の海軍を撃滅するだけの任務も果たせない戦艦など無用の長物に思えました。
そこで第1次世界大戦後、敗戦国となったドイツ海軍から戦利艦(戦争に負けると、賠償の一貫として戦勝国に引き渡される軍艦)として戦艦が手に入ったので、これを使って航空機の威力を試してやろうと考えます。

1921年7月、旧ドイツ戦艦“オストフリースラント”(1911年から就役した、12インチ砲搭載で強力な防御力を誇る弩級戦艦ヘルゴランド級)に対し、当時1個飛行隊しか無かった陸軍航空隊の虎の子、マーチンMB-2重爆撃機を使って、爆撃実験を行ったのです。

実験は2日間に行われ、初日に重量230~2,000ポンド(約104~907kg)の各種爆弾69発が投下されて16発が命中したものの、重装甲を誇るオストフリーラントはなかなか沈みません。
翌日には1,000ポンド爆弾と2,000ポンド爆弾各6発が投下され、前者は3発命中、後者は3発が至近弾となって同艦は海中に没し、ミッチェルの目的は達成されました。

海軍としては、「おいおい、ただ浮かんでるだけの無人の戦艦なら、飛行機じゃなくてもボコボコにすればそりゃいつかは沈むよ」と言いたいところですが、ミッチェルはこれ幸いと「航空機最強! 戦艦など無用!」と宣伝に努めてしまいます。

不遇と失脚

しかし、実験方法にいささか問題があったとはいえ、とにかく「飛行機で戦艦を沈めるだけの兵器を運び、投下して攻撃できる」ことは事実でした。
そして、それは航空戦力をとにかく拡充したい派閥以外の勢力にとっては、非常に“都合の悪い事実”だったのです。

まず戦艦が沈められた海軍や、ミッチェルの所属していた陸軍にとって、第1次世界大戦後の限られた予算を飛行機に回せるものではありませんでした。
それまでに建造した軍艦や大砲、各種装備を更新しなくてはいけませんし、それを使った戦争の形として飛行機は非常に有用ではありましたが、あくまで「軍隊や艦隊を支援するためにまず必要」とされていたのです。

おまけに資本主義国家であるアメリカにとって、まだロクに発展していない航空機産業よりも、軍艦を建造する造船産業への投資の方が確実であり、市場としてもはるかに大きなものでしたから、これまた民間からも歓迎されませんでした。

それら保守派に対し、「とにかく優秀な飛行機を開発して大量に配備すれば、将来の戦争も必勝!」と強気の発言を繰り返すミッチェルは、邪魔者でしかなかったのです。
おまけに飛行機優越論者にとっても、ミッチェルがあまりに過激な発言を繰り返すあまり、飛行隊そのものが非現実な存在として葬られては、たまったものではありません。

こうして誰からも嫌われたミッチェルは、閑職へ左遷された挙句に1926年にはついに軍法会議にかけられ、有罪となって陸軍を追い出されてしまったのでした。
その後も1936年に死去するまで飛行機の発展とその有用性を説き続けましたが、後にその名は思わぬところで歴史に浮上します。

B-25“ミッチェル”東京へ

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By davidgsteadmanhttps://www.flickr.com/photos/90949166@N00/3878466633/, CC 表示 2.0, Link

第2次世界大戦が始まり、太平洋戦争も開戦して約5ヶ月後の1942年4月18日、日本列島沖に展開した米海軍の空母“ホーネット”から、16機の爆撃機が東京など日本各地を爆撃するべく飛び立ちました。

2基のエンジンを持つ、米陸軍航空隊の最新鋭双発爆撃機、ノースアメリカンB-25“ミッチェル”。
1939年に初飛行したこの爆撃機の名は、ウィリアム・ミッチェルから名付けられました

彼が失脚、退役するまでも、そしてその後死去するまでも、ミッチェルは誰からも嫌われているようでいて、陰に日向に彼を支持する者、例えばダグラス・マッカーサー元帥などもその一人でしたが、彼らによってミッチェルの死後、その功績は再評価されたのです。

16機の“ミッチェル”は、米陸軍航空隊きっての冒険飛行家、ジミー・ドーリットル大佐に率いられて日本各地を爆撃して日本を激怒させ、太平洋戦争のターニング・ポイントとなる大バクチ作戦“ミッドウェー海戦”へと引き込むキッカケとなります。
この“ドーリットル空襲”によってB-25“ミッチェル”は歴史に名を刻み、その後も世界各地で連合軍によって使われて猛威を振るいました。

そして第2次世界大戦が連合国の勝利によって終わり、世界が落ち着いた翌年の1946年、アメリカ合衆国政府・議会は改めてウィリアム・ミッチェルの功績と先見の明を認め、その名誉を再回復して少将へと昇格させるとともに、議会名誉黄金勲章を与えたのです。

その時、墓場の下かあの世からか、ミッチェルは何と思ったことでしょう?

ホラ見たことか! しかしまだまだこれからだよ!

巨大なジェット旅客機や輸送機、戦略爆撃機から小さな練習機やヘリに至るまで、戦争だけでなく人類の隅々まで飛行機が必要不可欠になる時代は、もうそこまで来ていました。

菅野 直人

物心付いた時には小遣いで「丸」や「世界の艦船」など軍事情報誌ばかり買い漁り、中学時代には夏休みの課題で「日本本土防空戦」をテーマに提出していた、永遠のミリオタ少年。撤退戦や敗戦の混乱が大好物で、戦史や兵器そのものも好きだが、その時代背景や「どうしてこうなった」という要因を考察するのが趣味。

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