• TOP
  • 偉人伝「宇宙のためなら手段を問わなかった男」ヴェルナー・フォン・ブラウン

2018/02/26

菅野 直人

偉人伝「宇宙のためなら手段を問わなかった男」ヴェルナー・フォン・ブラウン

2018年2月7日、米フロリダ州ケネディ宇宙センター第39発射施設LC-39Aから打ち上げられたスペースX社の大型ロケットファルコン・ヘビー」は打ち上げに成功し、それ自体が再利用品だった2基のブースターが再利用のため地上の回収スポットへ着陸する映像は、「ようやく到来した未来の実現」だと、多くの宇宙ファンを熱狂させました。しかし、同じLC-39Aで50年以上前に打ち上げ成功した「サターンV」には、打ち上げ重量の面でまだ及んでいません。そのサターンVを打ち上げた男の名は、ヴェルナー・フォン・ブラウン

報復兵器V-2を作った男

Fusée V2.jpg
By AElfwine at the French language Wikipedia, CC 表示-継承 3.0, Link

第2次世界大戦末期の1944年9月8日、ベルギーのホウファリーゼとオランダのハーグ近郊に設置された発射基地から、それぞれパリとロンドンを攻撃すべく史上初の弾道ミサイルが発射されました。
それまで数日間の発射失敗とは異なり各ロケットは順調に飛翔、目標となった両都市の防空システムはこの脅威を探知します。

急速に接近する敵機発見、極めて高高度より、超高速で接近中!」
宇宙空間を飛翔し、大気圏に再突入して超高速で着弾する弾道ミサイルに対する迎撃方法は、核弾頭を装備した対空核ミサイルでも無い限り、2018年2月現在ですらまだ完全に確立されていません。
既に巡航ミサイルV-1の迎撃で奮闘していた連合軍にとって、1944年当時の防空体制で何ができたでしょう。

弾道ミサイルは想定した目標通りとはいきませんでしたが、とにかくなす術の無い連合軍防空システムをあざわらうかのように着弾、大きな火柱を挙げました。
アグリガット4、略してA4と呼ばれるロケット、またの名を「報復兵器2号」、もしくは「V2」と呼ばれるこのロケットを開発した男こそ、ドイツ東部の貴族フォン・ブラウン家で生まれた、ヴェルナー・フォン・ブラウンでした。

本音はロンドンより月に撃ち込みたい!

1912年に生まれ、第1次世界大戦でドイツ帝国の敗北と崩壊によりシュレージェンへ一家ごと移住したヴェルナー・フォン・ブラウンは、ドイツのロケット先駆者ヘルマン・オーベルトの記した論文を目にしたことで、将来への大きな転換点を迎えました。
かつて母親から贈られた望遠鏡で覗き見ていた宇宙への憧れは、それまでの数学や物理学への苦手意識を克服させる動機としては十分だったのです。

やがてベルリン工科大学で工学士となり、ベルリン大学の学生をしながらドイツ宇宙旅行協会で数々のロケット打ち上げ試験に携わりますが、協会がそれまで得ていたドイツ軍からの資金援助を拒否したことで、ロケット開発続行のためドイツ陸軍兵器局入りします。

以後、軍が新たに建設したペーネミュンデ陸軍兵器実験場などで、小型の試験機A1からV2として実用化されたA4、4段式にまで進化したA12ロケットの開発に携わっていくのです。

その間、陸軍からロケット兵器、ことにA4の主導権を奪いたいナチス親衛隊からの引き抜きにあい、それを拒否すると「本音は衛星打ち上げロケットや月ロケットの開発であり、そのために英国へ亡命しようとしている」と逮捕されてしまいます。

ヴェルナーの協力者だったヴァルター・ドルンベルガー陸軍大尉に加え、V2開発を指示していたアドルフ・ヒトラー総統さえも動いて釈放されたヴェルナーですが、親衛隊の逮捕理由も、あながちでっち上げとは言いませんでした。

V2(A4)ロケットが初めてロンドンに着弾した時、彼はこう言ったと言われています。
このロケットは、撃ち込むところを間違えている。」
かつてドイツ宇宙旅行協会へ入る以前からの願望「月ロケット」への夢を彼は捨てておらず、単にナチスと戦争を利用していると言われれば、全くその通りだったからです。

「妙に態度のでかいドイツ人」、アメリカ軍へ亡命

1945年5月にヒトラーがベルリンの総統地下壕で自殺、ドイツが無条件降伏するまで3,000発以上のV2ロケットがイギリスやフランス、ベルギーなどに発射され、V1巡航ミサイルより費用対効果も攻撃効果も劣るという結果を残しました。

しかし、弾道ミサイルがこれほど短期間に集中的に使用されたのは史上空前のことで、ドイツのV2(A4)関連開発チームは、間違いなくこの当時のロケット開発第一人者だったのです。

ドイツの運命も定まった頃、彼らは自分たちの将来について話し合います。
今後もロケットで宇宙を目指そうと思ったら、どこに降伏して自分を売り込むのが最適だろう?」

もはや戦争の結果など超越していた彼らは、今後アメリカへの対抗上ロケット開発を必要とするソ連へと向かうヘルムート・グレトルップと、それに負けじと第2次世界大戦を利用して強大化した国力をロケット開発に注ぐアメリカへ向かうヴェルナーのグループに分かれます。

数日後、降伏したドイツ国内で戦後に役立つドイツ人科学者をリクルート(あるいは捕縛)すべく活動していた「ペーパークリップ作戦」の民間人チームが、500人もの知的なドイツ人集団と接触、アメリカ軍にそれを知らせました。

当初、この「妙に態度のでかいドイツ人」に困惑した現地の軍部隊でしたが、それが戦争末期に猛威を振るったドイツのロケット開発チームであり、それを率いるのはロケットの第一人者、ヴェルナー・フォン・ブラウンである事を知って、態度を変えます。
彼らはV2(A4)ロケット生産工場から各種機械と完成品のロケットやその部品の多くを持ち出し、ヴェルターたちのチームをアメリカに移送しました。

捕虜扱いに耐えた男、ジュノーIに第一宇宙速度への加速を命じる

アメリカという「新たな職場」でのロケット開発継続に意欲的だったヴェルナーたちですが、その実態にだんだん失望していきました。
アメリカ当局はまず、ペーネミュンデから接収された膨大な書類の整理と解説、そして捕獲されたV-2ロケットの試験発射に関するアドバイスを求められただけで、すぐに新たなロケット開発ができなかったのです。

彼らにとってV2(A4)など「過去」に過ぎず、そのアメリカ独自改良型に至っては「何を今さら」という程度の、オモチャのようなものでした。
おまけに常時監視を受けていた彼らは、まるで捕虜扱いだったのです。

1950年になって、ようやくヴェルナーはレッドストーン兵器廠の陸軍エロケット開発チームを率いる立場となり、「レッドストーンシリーズ」と呼ばれる数々のロケットを開発します。

しかし、1957年10月4日にソ連が先に世界初の人工衛星スプートニク1号」の打ち上げと軌道投入を成功させてしまい、アメリカも急きょ対抗して人工衛星を打ち上げることに決まった時、選ばれたのは海軍が開発していたV-2発展型のヴァンガードでした。

この決定には「アメリカ初の人工衛星打ち上げにドイツ人を関与させたくない」という政治的判断があったと言われ、ヴェルナーをさらに大きく失望させることになります。
しかも、1957年12月6日に点火指令が出されたヴァンガードTV-3は、2秒後に推力を失って発射台上で崩壊・爆発し、打ち上げは見事に失敗したのでした。

こうなったら仕方ない、あのドイツ人に好きなようにやらせろ!」
ついにヴェルナー・フォン・ブラウンの出番がやってきました。
彼は、当初から衛星打ち上げ能力も考慮していたレッドストーン系試験用3段式ロケット、ジュピターCに衛星の軌道投入に使う4段目を追加、ジュノーIと命名されたそのロケットはヴァンガード失敗から3か月と経たない1958年1月31日、全ての準備を終えたのです。

ヴェルナーはただちにジュノーIに第一宇宙速度への加速を命じ、アメリカ初の人工衛星、エクスプローラー1号を無事に軌道へ乗せました
自由の国アメリカとはいえプライドや官僚主義による失敗もある、その好例のような出来事です。

史上最大のロケット、サターンVでついに月へ

S-IC engines and Von Braun.jpg
By NASA – NIX #: MSFC-0201422.
[1], Alt. URL., パブリック・ドメイン, Link

その後もヴェルナーたちの開発した「レッドストーン」シリーズは弾道ミサイルとしても、そしてもちろん衛星打ち上げ用ミサイルとしても数々の成功を収めました。
1960年にはNASA(アメリカ航空宇宙局)へ移籍し、レッドストーンシリーズの延長線上にあるサターンI / IBロケットを作り上げます。
これらで初期の計画を進め、そして最終的には若き大統領による公約によって、人類史上初の月ロケットとして建造されたのが、史上空前の大型ロケット、サターンVでした。

数度の試験発射と予行演習を経た1969年7月16日、アポロ11号を載せたサターンVは米フロリダ州ケネディ宇宙センター第39発射施設LC-39から打ち上げに成功。
4日後、2名の宇宙飛行士を乗せた着陸船イーグルは無事に月面に着陸します。
いつか月への宇宙旅行を目指してドイツ宇宙協会へ入ってから39年、ロケット科学者ヴェルナー・フォン・ブラウンの夢が叶えられた瞬間でした。

サターンVはその後もアポロ計画、アポロ・ソユーズテスト計画、スカイラブ計画で7度使用され、一度も打ち上げに失敗せず、1980年代にわずか2回試験発射が行われた旧ソ連のエネルギアを除けば、現在も「史上最大の打ち上げ能力を誇るロケット」です。

念願叶えたヴェルナーは1972年にNASAを退官、現在の米国宇宙協会の前身となる組織を興した後、1977年6月16日にこの世を去りました。
まさしく、「手段を選ばず、国家や組織を巧みに利用しながらそれを超越して、宇宙開発と人類の宇宙への進出に貢献した人生」だったと言えます。

菅野 直人

物心付いた時には小遣いで「丸」や「世界の艦船」など軍事情報誌ばかり買い漁り、中学時代には夏休みの課題で「日本本土防空戦」をテーマに提出していた、永遠のミリオタ少年。撤退戦や敗戦の混乱が大好物で、戦史や兵器そのものも好きだが、その時代背景や「どうしてこうなった」という要因を考察するのが趣味。

この記事を友達にシェアしよう!

この記事が気に入ったら
いいね!しよう

サバゲーアーカイブの最新情報を
お届けします

関連タグ

東京サバゲーナビ フィールド・定例会検索はこちら
東京サバゲーナビ フィールド・定例会検索はこちら

アクセス数ランキング