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2018/02/7

菅野 直人

中立国スウェーデンの個人的国際義勇空軍・ローゼン伯爵

戦争が起きると活躍する軍人というのは、大抵の戦争、大抵の軍隊組織に存在するものですが、中にはそうした組織に属さず個人的に戦争で大活躍しちゃう人物もいます。いわば「ひとり義勇軍」というべきもので、その代表格のひとりが長らく中立国として有名だったスウェーデンから生まれるというのも興味深いところ。今回はそのカルル・グスタフ・フォン・ローゼン伯爵をご紹介します。

ゲーリングの甥、ローゼン伯爵

Bengt Nordenskiöld o Carl Gustaf von Rosen.JPG
By 撮影者不詳 – Ralph Herrmanns, Carl Gustaf von Rosen. Stockholm 1975, パブリック・ドメイン, Link

中世以来、北欧の大国として、あるいはロシアとヨーロッパの境目で常に紛争に巻き込まれないよう外交的・軍事的努力を続けてきたスウェーデン。

最近になって中立政策を捨ててEUやNATOなど西側陣営に明確に属したかと思えば、冷戦終結で徴兵制を廃止したら人材不足で困った一方、ロシアの脅威は相変わらずなので、また徴兵制を復活させるなど軍事面でもニュースに困らない国で、その貴族として1909年に生まれたのがカルル・グスタフ・フォン・ローゼン

歴史的にロシアが嫌いな上、国王を仰ぐ立憲君主制国家の貴族とあってロシアも共産主義も大嫌いで、父親のエリックなどカルル・ローゼンがまだ子供の頃、ロシア革命に乗じて独立戦争を戦ったフィンランドに渡り、フィンランド空軍創設の立役者となったくらい

つまり飛行機好きで小国を助ける戦争はロマンやスリルと考えちゃう冒険家の父を持ったカルルは、並の家系の子供じゃなかったというわけです。しかも後にナチス・ドイツで「我らがヘルマン」と親しまれた空軍のボスにして国家元帥、ヘルマン・ゲーリングの妻の甥っ子でもありましたから、その血筋を見るだけでいろいろと納得してしまいます。

アクロバット飛行は大得意、飛行家ローゼン

そんなカルル・ローゼンでしたから、幼い頃から父の武勇伝だの大空の素晴らしさだのを、目をキラキラさせながら暖炉の前で聞いていただろうことは、想像に難くありません。まだ飛行機そのものが少なかった時期、まずは整備士として大空への夢を追い続けると、ほどなく自ら操縦してパイロットへの道へ

貴族が自ら不完全もいいところな時代の飛行機を操縦するなど、日本ではあまり考えられなそうですが、ヨーロッパでは戦争になれば貴族がヨロイ着て馬に乗り、騎士として駆けつけるもんですから、むしろ当たり前だったのでしょう。

しかしそこで偉そうな経歴、たとえばスウェーデン空軍の要職への道につくとかそういうことではなく、カルル・ローゼンが選んだのはアクロバット飛行や空中で他の飛行機に飛び乗るような、空中サーカス団の一員でした。おお、貴族がサーカスなんて……親の顔が見たいと言っても父親が冒険飛行家ですし。

ローゼン伯爵、フィンランド救援に飛び立つ

Douglas DC-2 Uiver.jpg
By Stahlkocher投稿者自身による作品, CC 表示-継承 3.0, Link

しかし父親同様、平和な空を自由に飛び回っているだけではスリルやロマンを求める気持ちを満足できません。せっかくテクニックも飛行機もあり、しかもウチは貴族だ金持ちだ、ならば貴族の義務とは困った人を助けることだ……という理屈なのか。

イタリアからの二度目の侵攻(1935-1936:第二次エチオピア侵攻)を受けて世界中からの同情とイタリアへの非難にあふれるエチオピアに飛びます。

そこで物資輸送飛行に飛び回ったあとにKLM(オランダ航空)に就職、しばしの間は平和な民間航空路のパイロットへ。ただしその平和な時期は長く続かず、1939年9月には第2次世界大戦が勃発。オランダはすぐ侵攻されたわけではありませんでしたが、ゲーリングの甥という立場であまり居心地も良くなかったでしょう。

1939年11月にソ連軍がフィンランドへ侵攻する「冬戦争(1939-1940年)」が起きると、父と同じく義勇軍パイロットとして、小国フィンランドを救うべく立ち上がります。それもダグラスDC-2旅客機(かの有名なDC-3の原型のひとつ)を改造した「ハンシン・ユッカ号」という、日本人が聞いたら浪速節を感じるネーミングの爆撃機に、オランダ製コールフォーフェンFK52戦闘機2機を準備し、編隊を組んでフィンランドへ来援。

基本的には「ローゼン伯爵家義勇空軍」とでもいうべきもので、カルル・ローゼン自らの操縦でソ連軍基地を爆撃するなど大活躍。スウェーデンでもこれに続けとばかりに義勇軍を編成する動きが起きますが、ソ連からの「義勇軍の投入はスウェーデンが中立政策を放棄したとみなす」という脅しに屈し、本格的な援助は頓挫。

イギリスやフランスなどもフィンランド支援を真剣に検討、一時は対ソ戦に発展する可能性もありましたが、その前にフィンランドが講話を受け入れ(翌年「継続戦争」として1944年まで続く)、さらにドイツ軍のフランス侵攻もあって、うやむやになりました。

ビアフラ戦争でナイジェリア空軍を撃滅

冬戦争とフランス侵攻以降、今度はナチス・ドイツと戦おうとイギリス空軍への志願を求めたカルル・ローゼンですが、「ゲーリングの甥っ子がイギリス空軍でドイツと戦うバカ言っちゃいかん!」とばかりに却下。仕方なくKLMに復職して、ロンドン-リスボンなど戦争とは遠い中立国航空路のパイロットになったのでした。

第2次世界大戦が終わると、戦前に縁のあったエチオピアで空軍教官として過ごした後、危険な戦場を輸送機や旅客機で飛び回った経歴を買われ、国連事務総長専用機のパイロットとしてコンゴ動乱を飛び回り。さらにアフリカのナイジェリア東部でビアフラ共和国が誕生、「ビアフラ戦争」という独立戦争が起きると、経済封鎖で飢餓に苦しむビアフラ国民を救うため、援助物資輸送飛行に馳せ参じます。

しかし、人道的救援飛行すら平然と妨害するナイジェリア空軍に腹を立てたカルル・ローゼンはスウェーデン製単発レシプロ軽飛行機、マルメMFI-9を軽攻撃機に改造、5機にロケット弾ポッドなどを取り付けて、ナイジェリアの空軍基地を襲いました。

ビアフラ側にロクな航空戦力など無いと油断していたナイジェリア空軍への奇襲攻撃は大成功して、ミグ17ジェット戦闘機やイリューシン28ジェット軽爆撃機を地上でなすすべもなく撃破されたのです。ビアフラ戦争そのものは最終的にナイジェリアの勝利で終わったものの、その中で一矢を報いたカルル・ローゼンの名声は高まったのでした。

戦場あるところローゼン伯爵あり

ビアフラ戦争の終結時点で既に61歳となっていたカルル・ローゼンですが、その後もなお飛び続け、「戦場あるところローゼン伯爵あり」を示し続けました。彼の最後の飛行となったのは1977年、エチオピアとソマリアの国境紛争の中で、救援飛行のため飛来した街の郊外でゲリラの襲撃を受け、最後は大空ではなく地上でその命を落としました。

実に40年以上を「救援飛行」や「義勇軍」として活躍したローゼン伯爵こそは、「空のノブレス・オブリージュ(貴族の義務)」を体現した人物で、軍人としての華々しいキャリアにこそ生涯を通じて縁はありません。しかし、「もっとも戦場を飛び回った冒険飛行家のひとりであり、その最後のひとり」であることには、疑いは無いでしょう。

菅野 直人

物心付いた時には小遣いで「丸」や「世界の艦船」など軍事情報誌ばかり買い漁り、中学時代には夏休みの課題で「日本本土防空戦」をテーマに提出していた、永遠のミリオタ少年。
撤退戦や敗戦の混乱が大好物で、戦史や兵器そのものも好きだが、その時代背景や「どうしてこうなった」という要因を考察するのが趣味。

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