- コラム
現代航空母艦のトレンドと運用思想 【前編】
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菅野 直人
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2018/01/22
菅野 直人
旧日本海軍の士官にもさまざまな名物人間がいましたが、その中でも型破りな士官として名を知られるのが潜水艦長、そして戦争末期には人間魚雷「回天」の指揮官となっていた板倉光馬少佐(終戦時)です。とにかく酒癖の悪さで候補生時代から始末書の問題児だった一方で、乗り組んだ艦の綱紀粛正を徹底しようとするなど「厳しいのかなんなのか」難しいところのある人物ですが、そういう人材の豊富さが日本海軍を支えていたのでしょう。
By 不明 – unknown, パブリック・ドメイン, Link
北九州の小倉出身、少年時代に関門海峡を航行する連合艦隊の威容に惹かれて、落第生さながらの成績ながら猛勉強で海軍兵学校(51期)に合格した板倉光馬でしたが、あまり要領のいい方ではなかったようで、ことあるごとに教官や上級生から鉄拳制裁を受けていたようです。
しかし頭角? を表したのは候補生時代で、1934年(昭和9年)の練習艦隊による遠洋航海である意味開眼、「始末書の書き方は板倉に聞け」と言われたほどの問題児として知られるようになりました。
インド洋の猛暑下、夜食にアツアツのうどんが出てこれはたまらんと上半身裸で食べていたのを見つかり、大目玉を喰らった挙句に初の始末書(※ただし、これは他の候補生も同じだったが、たまたま入口の目の前にいたのが板倉だった)。
団体行動によるパリ見学を他の候補生と2人で抜け出し、ルーブル美術館やムーラン・ルージュ(キャバレー)を心ゆくまで楽しんでホテルに帰ったところ、日本海軍の恥をしのんでも捜索願を出すかどうか大騒ぎになっていた。
地中海を航行中、練習艦“磐手”の艦橋直下シェルターデッキで「灯台元暗し」とばかりにマルセイユで仕入れたワインを他の候補生と楽しんでいたところ泥酔して眠り込んでしまい、翌朝甲板掃除の水をぶっかけられて目が覚めると、目の前に仁王立ちの指導官が!
……エトセトラ、このような感じで実に遠洋航海中8枚もの始末書を量産し、日本海軍の新記録を打ち立てたと言われています。
しかし、日露戦争を戦った老巡洋艦であり、旧式化で練習艦になっていた“磐手”で火災を想定した放水訓練がうまくいかなかった時、艦底深くまで粘り強く潜り込んで放水系統の故障箇所を突き止めるという大殊勲もありました。
「トンデモ無いこともやるが、功績もまたでかい」という板倉の本領は、この時から輝きを増していきます。
By Yamatonadesiko1942 – 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 4.0, Link
その後も操縦士に憧れては、赤とんぼ(三式陸上初歩練習機)での飛行実習の最後で墜落直前の事故を起こして夢を絶たれるなど問題続きの板倉でしたが、1935年(昭和10年)には戦艦”扶桑”乗組の少尉として海軍士官の道を本格的にスタートさせます。
しかし、2隻目に航海士として乗り組んだ軽巡洋艦(後に改装を受けて重巡洋艦)“最上”で、とんでもない大事件を起こしました。
同艦の艦長は男爵・鮫島具重大佐だったのですが、ある日の上陸で華族ゆえに歓待客の多かった鮫島艦長がなかなか帰艦せず、それに合わせて内火艇(艦載の雑役船)もなかなか迎えに来ません。
そのうち港で迎えを待ってウロウロしているのは“最上”乗組員ばかりになると、かねてから「下士官兵の門限破りは罰するのに、士官にだけ寛大な日本海軍の風潮」に嫌気のさしていた板倉は、酒の勢いもあって、猛烈に腹がたってきました。
その時、ようやく鮫島艦長が現れたかと思うと婦人その他の来客を引き連れた大名行列で、罪悪感も無いのを見た板倉の中で堪忍袋の尾が切れたのです。
奇声を上げながら駆け寄ると、顔面へのパンチ一発で鮫島艦長を殴り倒し、慌てた他の士官などに羽交い締めにされて内火艇へ連行されたところで、我に返ります。
「任官したばかりの少尉風情が、酒に酔って艦長に鉄拳制裁!」
日本海軍始まって以来の大不祥事と言われ、さすがの板倉も海軍から放り出されるのを覚悟していましたが、翌朝になって鮫島艦長に呼ばれました。
鮫島「君は、酒をやめられないか?」
てっきりその場で処分を言い渡されるかと縮こまっていた板倉でしたが、今さら誤魔化しても仕方がないと開き直ります。
板倉「努力はしますが、無理だと思います。」
鮫島「……では、せめて量を減らせないか?」
板倉「もっと無理です。」
鮫島「……もういい。行きたまえ。」
この後もう一度呼び出されて、士官の規律弛緩など日頃のうっぷんを吐き出し、さぁいよいよこれまでと身辺整理をしていた板倉の元に届いたのは「“青葉”乗組を命ず」のみ。
つまり無罪放免、あとは普通に転属して励めということでした。
若輩士官に痛いところを突かれた鮫島艦長が上層部に掛け合って処分しないよう取り計らってくれたようでしたが、これが後にまた別なエピソードを生みます。
先に飛行士官になりそこねた板倉でしたが、専攻としてサブマリナー(潜水艦乗り)への道を選ぶには、またひとつ酒にまつわるエピソードがありました。
重巡洋艦“青葉”乗組時代に上陸、10人ほどで開いた同期会の幹事を押し付けられた時、要領の悪さも災いしてエス(芸者)の確保に苦労した挙句、エスを分けてもらえないかと、ある座敷のふすまを開けたところ……「何じゃ貴様は!」。
こともあろうに、新米少尉に怒鳴ってきた相手は第一水雷戦隊司令官、南雲忠一少将(後の第一機動部隊「南雲艦隊」司令長官)だったのです。
叱責されつつ事情を話すと同席していた他の士官が誰だと思う? と問われ、旗艦艦長だの先任参謀だのと適当に答えていたら、何と連合艦隊参謀長(野村直邦少将)と、第一潜水戦隊司令官(小松輝久少将)という、そうそうたる面々。
アリャリャ、こりゃまいったと思っていると「エスは分けられんが、お前の同期生を呼んで来い」と言われ、そのそうそうたる面々と酒を酌み交わすことになったのでした。
板倉以下、新米少尉一同は恐縮しながら南雲少将や野村少将からの盃を受けて飲んでいたのですが、板倉が感銘を受けたのは小松少将と話した時です。
小松少将は臣籍降下して軍務についていたものの、実は皇族の北白川宮輝久王。
その元“宮様”がなぜ潜水艦勤務に……と思っていると、当時の日本海軍において潜水艦は「ドン亀」などと言われる陽の当たらない分野で人材不足が著しく、それを憂いて身を投じたとのこと。
これに胸を熱くした板倉は、進路志望に「第一希望、潜水艦、第二希望、潜水艦……」と書くほど熱烈な潜水艦マニアとなったのです。
その甲斐あって1936年(昭和11年)、中尉任官と同時にイ68潜水艦の通信長となりますが、乗り組んでいた第12潜水隊司令・石崎大佐とコトあるごとに衝突しては不興を買ってしまいます。
しまいには次の任地、空母“加賀”乗組のため離任の挨拶をした際には、石崎大佐に「司令のような方がいるから潜水艦に人が集まらないのです」と捨て台詞を吐き、最後まで鉄拳制裁を喰らうのでした。
どうもこのあたりが板倉の「融通の利かなさと要領の悪さ」ではありますが、日中戦争への従軍中に風紀の乱れが目立っていた転属先の“加賀”では、甲板士官としてしばしば怒鳴り倒しては艦内の引き締めに奔走しています。
さて、その後も駆逐艦“如月”や練習艦“八雲”、水雷学校などを経て、イ169潜水艦の先任将校兼水雷長として太平洋戦争の開戦を迎えます。
1943年3月にはついにイ176潜水艦長となって一城の主になりますが、同年12月にイ41潜水艦長へと転属すると、翌月にはラバウルからブーゲンビル島のブインへ輸送任務を命じられました。
もうその時期のブイン守備隊(第8艦隊)は潜水艦で運べるわずかな物資以外に補給手段も無い「敵中で孤立無援」という状態でしたが、命令を受領するため出頭した南東方面艦隊司令部で、司令長官・草鹿任一中将から、思わぬ言葉をかけられます。
「ブインで鮫島中将がお待ちかねだよ。……そう、君が少尉の時に殴った“最上”の艦長だ。」
自分の有名人ぶりにも面食らいましたが、それ以上に自分の海軍奉職の道を絶たず穏便に済ませてくれた、かつての上官への恩返しの時が来た! と、板倉の胸は熱くなったのです。
ブインへの道のりはもちろん平坦ではなく、機雷掃海と警戒を行う大発(大発動艇)が魚雷艇と交戦している間に突入するという緊迫したものでしたが、それでも無事揚陸地点にたどり着きました。
久々の補給成功で涙を流しながら艦上に上がってきた第8艦隊連絡参謀に「鮫島閣下にどうかよろしく」とサントリーの角瓶(ウイスキー)を渡すと、2度目の輸送作戦では返礼に鮫島長官自ら椰子の木で作った7本のパイプと丁寧な手紙を受け取ります。
結局ブイン強行輸送はこの2回のみでしたが、それから13年がたち、戦後無事復員した鮫島元長官が余命いくばくも無いことを知った板倉は、その病床を見舞いました。
既に脳溢血で体の自由もきかず、声も出せなかった鮫島元長官でしたが、板倉が来たことを知ると、弱々しいながらもしっかりと、部屋の一角を指さします。
そこには、あの時ブインに届けたサントリーの角瓶に、白い山茶花が一輪、添えられていました。
By World Imaging – 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 3.0, Link
1944年4月にイ41は内地へ帰還、板倉はマーシャル諸島の米海軍基地、メジュロ環礁を攻撃する「竜巻作戦」への支援を求められますが、魚雷を積んで警戒の薄いサンゴ礁を乗り越える特四式内火艇(水陸両用魚雷艇)が作戦に必要な実用性を備えていないと看破します。
静粛性が求められる作戦なのにエンジンの騒音がひどく、さらに本来砂浜への上陸に使う水陸両用輸送車だった特四式内火艇の履帯(キャタピラ)では、起伏が激しいサンゴ礁の突破は無理だったのです。
しかし、海軍期待の奇襲作戦だった竜巻作戦を公然と批判したことで上層部から激怒され、一時は第六艦隊(潜水艦隊)から銃殺刑を申し渡されるほどでしたが、結局不問となって同年8月から人間魚雷「回天」指揮官となりました。
特攻部隊の指揮官としての心労は豪傑の板倉にとっても激しかったようで、幾度も自ら出撃を希望するも叶いません。
終戦時の玉音放送は聞き取りにくかったこともあり、何があってもいいようにと48時間以内に回天全基を使用可能なように急速整備を命じますが、結局戦争が終わったことがわかったため、出撃するには至りませんでした。
その後も自決しかけたところを説得され、回天隊の戦後処理が板倉の海軍最後の仕事となります。
戦後は公職追放などで苦労しますが、防衛庁海上幕僚監部技術部、三菱重工神戸造船所を経て、海上自衛隊初期の国産潜水艦“はやしお”の深々度潜航テストに乗艦指導などをした後に退職、2005年に92歳でこの世を去りました。
物心付いた時には小遣いで「丸」や「世界の艦船」など軍事情報誌ばかり買い漁り、中学時代には夏休みの課題で「日本本土防空戦」をテーマに提出していた、永遠のミリオタ少年。
撤退戦や敗戦の混乱が大好物で、戦史や兵器そのものも好きだが、その時代背景や「どうしてこうなった」という要因を考察するのが趣味。
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