- コラム
駄作兵器を傑作にしてみせよう! 「パンジャンドラム」
2017/03/21
菅野 直人
すごいー! たーのしー!
2017/12/1
菅野 直人
現在でもイギリス国内では人気が高いと言われ、ユーモアあふれる不屈の宰相として第2次世界大戦でナチスドイツの猛攻から守りきったと誉れも高い、サー・ウィントン・チャーチル。しかし、そのアクの強い人物像や現実離れした極端な「大英帝国主義」から周囲の人間の苦労も並大抵では無かったようです。だからこそアメリカ参戦までイギリスを支えたのかもしれませんが。
By British Government –
This is photograph HU 90973 from the collections of the Imperial War Museums.
, パブリック・ドメイン, Link
ウィンストン・チャーチルは1874年11月30日、父ランドルフとアメリカ人の母ジャネットの間に生まれました。
それもランドルフが出席した船上パーティでジャネットを見初めて3日後には婚約、家柄違いとチャーチル家で反対されつつ、ジャネットの実家が裕福という理由で結婚が成立したというあたり、既に大英帝国崩壊の兆しが見えるエピソードです。
チャーチルは8歳で最初の学校に行きますが、何かあるとムチ打ちの刑で罰するという保守的な貴族の教育現場には全くなじます反抗しては勉強しない問題児で、その校風にアメリカ人の母も反発して、別な学校に移ります。
その頃は父ブライトンが政治家として次期首相の座を伺うという時期で周囲も気を遣う「親の七光り」で随分楽をしたようで、それでもサンドハースト王立陸軍士官学校に2度も落第していますが、3度目の正直で合格、王立陸軍士官の道を歩みました。
ただし、士官学校でも入学時の成績が悪かったので、馬を借りたり費用がかかるので不人気な騎兵将校となります。
それでも王立陸軍騎兵将校として立派な戦績を残したか……といえば、実際のところ戦場には行くものの観戦武官や従軍記者のような立場ばかりで、その体験を元に執筆してはその印税で食っているという状態。
本人も軍人というよりは文筆業や父親同様政治家としての道を歩みたかったようで、目立つエピソードといえば、1899年に勃発した第2次ボーア戦争に新聞特派員として従軍中、捕虜となった際に収容所から脱走に成功したくらいです。
このエピソードは後にアイルランド独立戦争(の際、1921年にシン・フェイン党代表のマイケル・コリンズが「イギリス政府は自分に5,000ポンドの懸賞金をかけている!」と批判した時、「5,000ポンドもつけばいいじゃないか、私なんか第2次ボーア戦争での懸賞金は25ポンドだったぞ?」と冗談めかして語れた時に活きます。
軍人というよりフリージャーナリストのようだったチャーチルが政治家になった後も、ユーモアを取り混ぜているとはいえむしろ過激な発言で存在感を示し、とにかく周りが扱いに困る人物であり続けました。
By User:Hohum –
Trenches on the Western Front
German Albatros D.III biplane fighters of Jasta 11 at Douai, France
Vickers machine gun crew with gas masks
British Mark V tanks
British battleship HMS Irresistible, パブリック・ドメイン, Link
1914年に第1次世界大戦が勃発した頃は海軍大臣に就任しており、水雷艇駆逐艦(後の駆逐艦)や潜水艦など新ジャンルの艦艇建造など、海軍艦艇の入れ替えに積極的だったフィッシャー提督を引き込み、軍備増強を進める好戦派でした。
そのため大戦勃発と同時に喜々として勝手に海軍動員令を発し、ロシア帝国の要請でオスマン=トルコ侵攻作戦(ガリポリの戦い)を主導して大失敗に終わったあげくにフィッシャー提督と仲違いして引退に追い込むなど、周囲を振り回し続けます。
その一方で海軍航空隊から発展した王立空軍や、史上初の「戦車」開発に尽力して実戦投入を果たすなど、活動的で新機軸の導入もいとわない姿勢は、良くも悪くもイギリスのみならず世界の軍事史に大きな影響を与えましたが、さすがに海軍大臣はクビになっていました。
しかし、第1次世界大戦が終わると軍需大臣に返り咲き、社会主義・共産主義嫌いからロシア革命への干渉戦争に積極的になりますが、「もう戦争はこりごり」と軍民ともウンザリしていたイギリスでは受け入れられず、浪人生活が続きます。
第2次世界大戦までのいわゆる「戦間期」には、ナチスドイツに対し最初は「ソ連への防波堤」、やがては「ソ連と結託してヨーロッパを席巻する勢力」として警戒を強めます。
しかし、時のイギリス政権が対独融和策をとっていたため結局は大戦勃発(1939年9月)を招くと、チャーチルは海軍大臣へ復帰、「ウィンストン、艦隊へ帰る」の報が飛びました。
ドイツによるノルウェー侵攻で敗北するとチェンバレン内閣は総辞職、かわっていよいよ政権の座についたチャーチルは所属した保守党と、野党の労働党による大連合「挙国一致内閣」で戦争に臨みますが、それから1ヶ月もしないうちにフランス戦で英仏連合軍は大敗北。
それでもチャーチルはなお戦争を終結させようとしなかったため和平論者から好戦的に過ぎると批判されますが、ドイツによる対英上陸作戦を前にした航空決戦「バトル・オブ・ブリテン」を粘り強く指導して勝利に導いたことで、一躍救国の英雄扱いを受けます。
さらには1941年12月の日本参戦、それによるアメリカの参戦で形勢逆転を信じたチャーチルは歓喜し、香港やシンガポール陥落、日本海軍機による東洋艦隊壊滅で一時は落ち込むものの、アメリカの力で次第に盛り返していきました。
しかし、その一方で戦争の行く末がアメリカ次第、そして戦後まで見据えるとアメリカの援助で力をつけたソ連の影響力が増大、その中でイギリスは「間で小さくなっているロバのような」と、大英帝国終焉を皮肉るようになっていきます。
1945年5月にはナチスドイツが降伏、ヨーロッパ戦線が終結します。
チャーチルは日本降伏まで大英帝国の宰相として戦い続けるつもりでしたが、ドイツ降伏次第総選挙を望んでいた労働党に押されて総選挙を実施、敗北して労働党のアトリーへ政権を譲って、野に下りました。
いわば「戦争を勝利に導いて歓喜した後の選挙で、国民はチャーチルを喜んで突き落とした」形ですが、その後の労働党政権はイギリスの植民地が次々と独立するのを止められず、イギリスに唯一残された軍需産業すらも衰退させてしまいます。
その中で「結局はヒトラーのナチスドイツに代わってスターリンのソ連が台頭し、東西ヨーロッパ間に鉄のカーテンが敷かれただけ」と強気の反共外交で盛り返したチャーチルと保守党は1951年に政権に返り咲きました。
しかし、第2次世界大戦でアメリカに膨大な戦費の借金をしたことや産業の荒廃、植民地の独立による帝国主義の崩壊は止められず、チャーチル自身高齢になっていたため、80歳となっていた1955年に宰相の座を辞します。
晩年もチャーチル自身に対する人気は絶大で、誕生日に集まった群衆へ(第2次世界大戦以来トレードマークとなっていた)Vサインを送るなど健在ぶりを示しましたが、ついに1965年1月24日、脳卒中で死去しました。
葬儀は国葬として行われてエリザベス2世女王も参列、「臣下の葬儀に君主は出席しない」というイギリス王室の慣例を破るほどの、異例な葬儀となりました。
世界中に植民地を抱える大英帝国の「帝国主義」の熱烈な信奉者であり、大英帝国崩壊とともに死去したことで、チャーチルの死はそのまま大英帝国の終焉だった、という見方もできます。
日本が1933年に満州事変を起こした時も「わが大英帝国と同じことをしているだけ」と許容し、むしろ帝国主義的な新興国よりソ連のような共産主義国への敵対的な心情や発言の目立つ政治家でしたが、同じ王室(皇室)を仰ぐ立憲君主国という共通点からも、親日的だったとも言われていました。
結果的には大日本帝国を滅ぼす一翼を担う形にはなりましたが、太平洋戦争開戦直前まで対日宥和政策は続いていたとも言われ、一方では日本が戦争に加わったおかげでアメリカも戦争に引き込めたので、内心は複雑だったようです。
ともあれ、ゴリゴリの帝国主義者でありながら、大日本帝国と大英帝国、2つの帝国(ドイツ第3帝国も含めれば3つ)の最後を看取るという、皮肉な運命をたどった大宰相でした。
なお、チャーチルの名前は2つの兵器に残っています。
1つは第2次世界大戦中に開発されたイギリス軍の歩兵戦車「チャーチル」。
By Paul Hermans – 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 3.0, Link
国威発揚のため、国民に人気のあったチャーチルの名がつけられた、という意味ではソ連のスターリン重戦車に通じるものがありますが、チャーチル歩兵戦車もイギリス軍で主力戦車の1つとして使われたほか、ソ連軍にも供与されています。
東部戦線でソ連軍の重戦車として使われた「チャーチル」はあらゆる戦線で活躍しますが、チャーチルがゴリゴリの反共主義者だったことから、1991年のソ連崩壊までその事実はあまり明らかではありませんでした。
もう1つが2001年3月に就役したアメリカ海軍のアーレイ・バーク級イージス駆逐艦の31番艦「ウィンストン・S・チャーチル」で、チャーチルがアメリカ名誉市民権を持っていたとはいえ、現役アメリカ軍艦でアメリカ人以外の名を持つ唯一の例です。
By US Navy – U.S. Navy, パブリック・ドメイン, Link
DDG-81「ウィンストン・S・チャーチル」は今もバージニア州ノーフォークを母港として活動を続けています。
物心付いた時には小遣いで「丸」や「世界の艦船」など軍事情報誌ばかり買い漁り、中学時代には夏休みの課題で「日本本土防空戦」をテーマに提出していた、永遠のミリオタ少年。撤退戦や敗戦の混乱が大好物で、戦史や兵器そのものも好きだが、その時代背景や「どうしてこうなった」という要因を考察するのが趣味。
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