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駄作兵器を傑作にしてみせよう! 「パンジャンドラム」
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菅野 直人
By 不明 – acesofww2.com mirror
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著書「大空のサムライ」によって、ミリタリーマニアというよりむしろ一般の飛行機好きなどからウケが良かった日本海軍のパイロット、坂井三郎。元軍人の中でも戦後の発言や露出が多かったため、さまざまなエピソードが虚偽不明なまま「伝説」として語り継がれていますが、今回その一部を紹介しましょう。
幼い頃からスピードに憧れ、一度は操縦員(パイロット)への道を断念して戦艦の砲手となるも、その後一念発起して年齢制限ギリギリで操縦員となった坂井三郎。太平洋戦争を生き延びた零戦パイロットの中でも著書や発言が多かったことから、「零戦パイロットのエピソード」として戦後伝説的に紹介されることも多かった人物です。
その初期の「伝説」が蘭印(現在のインドネシア)攻撃の際のエピソードで、1942年2月18日(または25日)、敵基地を空襲するため侵攻中、蘭印軍の偵察機を撃墜後に、ジャワ島から逃走を図る輸送機に遭遇した、というものでした。
重要人物が乗っていることも考えられたため、誘導の上で強制着陸させて捕獲しようとしましたが、輸送機の窓から怯えた母娘の姿が見えたため戦意を喪失、結局見逃した、と証言されています。
坂井本人も「雲中に消え見失った」と報告していることから、事実としても特に記載すべき事項とされなかったのか、公式記録には残っておらず、蘭印側にも該当する飛行記録はありません。
「サムライがその武士道を見せたエピソード」のように紹介されていますが、本当にあったことなのかは不明です。なお、輸送機は蘭印空軍のDC-4輸送機と紹介されることもありますが、ダグラスDC-4はこの時期まだ初飛行したばかり(1942年2月14日)のため、おそらくはKNILM(オランダ領インド航空)のDC-5ヤDC-3の誤りかもしれません。
坂井三郎のエピソードとしてもっともロマンチックに語られるのが「ポートモレスビー上空の編隊宙返り」です。坂井が属する台南空(台南航空隊)がラバウル、ついでニューギニア東部のラエに進出して、そこからほど近いポートモレスビー攻撃に従事している頃。
戦死した同僚搭乗員の死を悼む意味合いもこめて、僚機(西沢広義・太田敏夫)とともにポートモレスビー上空へ飛行。3機で編隊を組み、敵地上空で堂々と見事な編隊宙返りを披露し、それに見とれていた敵兵も発砲せず見とれていた……というものです。
このエピソードにはいくつかパターンがあり、もっともドラマチックな中には、それを見ていた敵のパイロットが単機で台南空の進出したラエ基地に飛来して通信筒を投下。
その中には「先日の編隊宙返りお見事。次回飛来時には基地上空で歓待したいので、目印となるマフラーをつけられたし」と書かれたメッセージが入っていた……というものまであります。
現実には日本軍・連合軍ともにそうしたスタンド・プレーが許されるような雰囲気では無く、僚機の2人がいずれも戦死して証言できないこともあり、戦後の著作でゴーストライターが考えた創作だろうと言われていますが、定かではありません。
しかし、戦後の太平洋戦争関連の書籍では「ポートモレスビー編隊宙返りで有名な」あるいは「編隊宙返りで有名な台南空の三羽ガラス」として紹介されることが多く、まだ日本が優勢だった緒戦の華やかなエピソードとして高い知名度を持っています。
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負傷して戦闘から帰還した直後
その後ガ島戦(ガダルカナル戦)が始まり、ラバウルから零戦の戦闘行動半径ギリギリ、それも長い航続距離がかえってアダになって飛んで帰るだけでも疲労困憊するような「航空消耗戦」に引きずり込まれ、坂井もその一翼を担います。
しかし、ガ島戦が始まって早々の1942年8月7日、米軍の艦上爆撃機SBDドーントレスが警戒しながらガッチリと組んだ編隊を「油断して編隊を組んだままの艦上戦闘機F4Fワイルドキャット」と誤認。
不用意に後方から接近した坂井機はSBDの後部機銃から編隊集中射撃を受けて右頭部を負傷、右目失明、左半身麻痺という重症の中で、出血多量で意識を失いつつも4時間飛行してラバウルに帰還する離れ業により生還した、と言われています。
これも後に坂井自身が「意識がハッキリしない状況」だったにも関わらず「ハッキリ見てきたかのように語る」ことから、戦時中から疑問に思う搭乗員は多かったようです。ただし、重症を負ってラバウルに帰還し、その後治療のため内地帰還、右目の失明だけはどうにもならず搭乗員どころか傷痍軍人として海軍から退役させられそうになったことは確かでした。
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ガ島戦初期に戦線離脱したためその後のソロモン戦など航空撃滅戦による激しい消耗、敵新型機の登場や敵の空戦戦術の変化で零戦の優位が崩れ、日本海軍航空隊が砂上の楼閣のように崩れ落ちる時期に坂井は前線にいませんでした。
一応、再編成中の251空(旧・台南空)司令、小園中佐(終戦時に厚木反乱事件を起こした人物)からの推薦で搭乗員としての復帰が認められたものの教官配置で、鉄拳制裁やバッターリンチ(木製の「精神注入棒」で尻を引っぱたき気合を入れる)が多く、評判は良くなかったようです。
それでも戦力不足から1944年4月には横須賀空零戦隊で実戦部隊に復帰、6月には硫黄島に復帰して、マリアナ戦で勢いに乗る米空母機動部隊の艦載機が来襲した際の迎撃戦、それに機動部隊への攻撃にも参加しています。
一連の戦闘で、艦上戦闘機グラマンF6F数機の撃墜記録を残したものの、右目の視力を失っている中で後方を簡単に取られて射弾を浴びるなど苦戦し、「俺もヘタクソになったな」とぼやいたと言われました。
ただ、緒戦で零戦と総合的には同程度のF4FやP40、明らかに低性能のF2Aなどと戦ったのとは違い、最新鋭で格闘性能以外の全てで零戦に勝るF6Fヘルキャットを相手に、隻眼(片目)で約2年ぶりの実戦です。
実際の戦果や戦闘経過はともかくとして、「無事に帰還した」だけでも、坂井の技能が並以上であったことの証明にはなったでしょう。
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硫黄島から帰還後、1944年12月には新型局地戦闘機“紫電改”を主力として熟練搭乗員を中核とした、「日本海軍最後の最強戦闘機隊」との名声も高い343空「剣部隊」へ移籍します。
343空の通説としてよく語られる「エースパイロット部隊」の実情は、中核の「ジュク」(熟練搭乗員)を除けば多数の「ジャク」(若輩・新米搭乗員)で構成されており、そこで坂井は紫電改の操縦指導に当たります。
しかし、硫黄島迎撃戦を除けば緒戦の勝ち戦しか経験していないため実践的な教育ができず、精神論や鉄拳制裁、日中戦争や太平洋戦争初期の武勇伝ばかり多くて若い搭乗員をすぐ「ジャク」呼ばわりする坂井は、かなり嫌われていたようです。
1945年6月には横須賀航空隊に異動しますが、おそらくそれ以降という想定なのか、漫画「紫電改のタカ」(作・ちばてつや)で、主人公の滝飛曹長に「特別にフルチューンした黒い紫電改」を届けに来た「ベテランの坂井少尉」として登場しています。
横須賀空異動後は既に本土決戦に備えた温存策もあってほとんど出撃は無く、終戦後の8月17日に「国際法上の対領空侵犯措置」という名目で米重爆B-32を迎撃したのが最後のようです。
公式撃墜記録は日中戦争と太平洋戦争を合わせ28機(※海軍による公認戦果という意味で、実際の戦果とは限らない)。
ただし、戦後の著書でゴーストライター(あるいは口述筆記をまとめた担当者)による脚色が激しく「64機」と紹介されることもありますが、これは宮本武蔵の真剣勝負数を元にした数字で実際の撃墜記録と無関係と言われています。
戦後は黙して語らぬ搭乗員も多かった中で積極的に空戦記録など著作を出版、代表作「大空のサムライ」などは「一度に高い金を出せない少年でも買えるよう、薄い三部作にした」と語るなど、戦時の零戦パイロットの記録を広めようという配慮を見せました。
ただし、その発言内容や活動に批判的な意見も多かったため、軍事関係者やミリタリー・マニアまでいかない「ちょっと軍用機や戦記が好きな程度」の一般ファンにならば、ウケが良いという存在です。
坂井三郎中尉(終戦時の「ポツダム昇進」による最終階級)は技量に秀でたパイロットだったのは確かですが、「伝説はあくまで伝説」と割り切るのも、ひとつの考え方かもしれません。
物心付いた時には小遣いで「丸」や「世界の艦船」など軍事情報誌ばかり買い漁り、中学時代には夏休みの課題で「日本本土防空戦」をテーマに提出していた、永遠のミリオタ少年。撤退戦や敗戦の混乱が大好物で、戦史や兵器そのものも好きだが、その時代背景や「どうしてこうなった」という要因を考察するのが趣味。
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