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2017/11/4

菅野 直人

日本海軍最後にして最強の戦闘機隊指揮官、「デストロイヤー」菅野直の伝説と人物

最近では某漫画にも登場して有名になっている旧日本海軍のエースパイロット、菅野 直 大尉(二回級特進で最終階級は中佐)。型破りな人物が少なくない操縦士の中でも漫画的エピソードが多いためネタにしやすい人物の一人ですが、その「伝説」をいくつか紹介します。

優秀なのか何なのか? 規格外の飛行学生「菅野デストロイヤー」

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By 撮影者不明 – 碇義朗『紫電改の六機―若き撃墜王と列機の生涯』 (光人社), パブリック・ドメイン, Link

努力と才能、ケンカの強さで誰にも負けない人気者、しかし実は文学少年という少年時代からしてチート人物だった菅野 直が、家庭の経済的事情もあって軍人を志し、日本海軍の海軍兵学校70期生徒として江田島に赴いたのは1938年12月のこと。

68期を最後に兵学校生徒の在学期間が3年に短縮されたので、1941年11月には卒業して戦艦「榛名」や「扶桑」で少尉候補生としての日々を過ごし、1942年6月に少尉任官して第38期飛行学生、1943年2月に卒業して大分海軍航空隊へ。そこで戦闘機専修の教育を受けたあたりから、頭角をあらわし始めます

勉強熱心で技量はグングン伸び、射撃成績も優秀など優等生ぶりを発揮する一方、九六艦戦で空戦訓練をやれば教官機へ激突寸前まで肉薄する、着陸禁止で赤旗が振られている滑走路に強行着陸して機体が転覆大破、など破天荒な行動も目立ちました

特に飛行機乗りにとってもっとも重要と言える着陸事故で九六艦戦のみならず零戦まで何機も壊し、それでいて総合的に見れば優秀なので落第もせず、通り名の「菅野デストロイヤー」は各地の飛行隊にまでその名を轟かせたのです。

「デストロイヤー」の正確な由来は肉薄敢闘精神旺盛だからか、機体をやたらと壊すことなのか定かではありませんが、ともかくこの時点では「なんかウマイんだか乱暴なんだか」という、いち新米パイロットに過ぎませんでした

必殺重爆撃墜法! 南洋で編み出した背面急降下攻撃


いよいよ実戦部隊へ配属となった菅野は1944年2月、鹿児島基地で編成途上の三四三空(第三四三海軍航空隊。以下航空隊表記は同じ)で定数24機を率いる分隊長となります

(※なお、この三四三空は「隼部隊」と呼ばれた初代で、後に「剣部隊」と呼ばれて紫電改部隊として有名になる2代目三四三空とは違うので注意)

4月にマリアナ諸島方面に進出して絶対国防圏の防衛、その一翼をになった菅野ですが、米軍がまず押し寄せたマリアナ諸島ではなくパラオの基地を拠点として対重爆迎撃戦に連日出撃

ここで菅野が編み出したと言われる必殺戦法が「背面急降下攻撃」で、敵爆撃機の上空から横転して背面飛行で機体の浮き上がりを防ぎながら急降下

敵機の後ろを通過すると防御機銃に狙い撃たれるため、主翼直前ギリギリを通過するというアクロバット飛行であり、必然的に敵機のハナ先を目がけ垂直に落ちることから防御機銃からは死角となって、妨害を受けずに必殺の射撃を加える戦法でした。

当然相当に高度な技量を要求されるので、それを決行した菅野の腕が確かだったのはもちろんです。ただし、それ以前からソロモン・ニューギニア方面で類似の戦法が行われていたという説もあり、菅野が初というよりはオリジナルで編み出した上でそれを広めた先駆者が菅野、ということかもしれません。

ルパング島の王様、プリンス菅野


マリアナ・パラオの激戦により短期間で壊滅した三四三空から1944年7月にはダバオ(フィリピン)の二〇一空へ転属、ヤップ島へ進出して激戦を戦った後、10月には一度内地へ新造機(零戦52型)受領のため帰還します。
その間に空襲や台湾沖航空線で二〇一空と所属する第一航空艦隊は壊滅、最後の手段として神風特別攻撃隊による特攻作戦を開始しますが、特攻隊の指揮官は海兵同期の関行男大尉でした。

もともと「重要な戦いに参戦できないかもしれない」と内地帰還を嫌がっていた菅野でしたが、関大尉の特攻出撃を知ると自分も特攻に志願しますが、関大尉が艦爆出身だったように戦闘機搭乗員は特攻隊の直掩(護衛)のため却下されます。

仕方なく特攻直掩任務もこなしていた菅野でしたが、ある時セブ島の基地に零戦を空輸して中攻(双発中型攻撃機)に便乗して帰還する途中、敵戦闘機の襲撃を受けました。中攻の操縦士が観念して同乗者にあきらめろ、と告げると、菅野は「俺がやる」と未経験の中攻の操縦桿を握って敵機を見事振り切り、ルパング島へ不時着するという荒業を見せます。

通常、「何でも操縦できるマルチパイロット」など漫画でしかありえない話ですが、単発戦闘機出身の菅野がどこで双発攻撃機の操縦方法を覚えたのか、もはやチート補正としか言いようがありません。

さらにルパング島で原住民に遭遇すると、「俺は日本のプリンス、菅野だ!」と適当に名乗って原住民の尊敬を集めてしまい、救援到着まで王様として過ごすというワケのわからない日々を過ごしていました

激闘本土防空戦! 343空新選組隊長、突撃!

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By 撮影者不明 – 碇 芳郎『最後の撃墜王―紫電改戦闘機隊長菅野直の生涯』光人社, パブリック・ドメイン, Link

そんな豪傑・菅野はたとえ上官であろうと気に食わなければ上官扱いせず食ってかかるどころか拳銃で威嚇射撃を加えるような「危険分子」でもあり、元から特攻を志願していたこともあって、内地で新編される部隊への転属命令が出たタイミングで特攻を命令されます。

明らかにタイミングを図った嫌がらせでしたが、部隊上層部にいい加減嫌気がさしていた菅野はどこ吹く風で「もう異動も決まったし、言うこと聞く必要は無い」と輸送機を手配して、さっさと内地へ帰ってしまいました。

転属先は二五二空の戦闘301飛行隊でしたが、1944年12月には飛行隊ごと三四三空へ引き抜かれました。この三四三空こそが、若き豪傑エース、菅野直の名を不動にした精鋭部隊「剣部隊」で、最新鋭戦闘機「紫電改」を主力として編成、戦闘301は「新選組」と命名されて菅野はその指揮官となったのです。

剣部隊の創設者、源田実大佐(戦後に航空自衛隊の空将や政治家となる)に心酔していた菅野は特攻を断固拒否するようになり、フィリピン時代に特攻を推進していた上官が転属してくると率先して運動しすぐに再転属させてしまうなど、戦闘機乗りとして戦い抜くことを決めます

敵戦闘機との戦いでは「こちら菅野一番敵機発見!」と無線が入ったかと思うと既に先頭切って敵編隊へ突撃しているという勇猛ぶり。
おかげで二番機以下の列機は大変でしたが、指揮に専念と称して戦闘に加わらない兵学校出の士官パイロットも多い中、「指揮官先頭全軍突撃」を実践した菅野は、部下思いでもあったことから技量、人望ともに抜群の「伝説の隊長」となっていきました。

菅野直未だ還らず! 最後の戦い

しかし、激戦の中で三四三空「剣部隊」は日本海軍最強の戦闘機、紫電改をもってしても苦戦を強いられ、熟練搭乗員も次々と戦死して補充も追いつかなくなります。

通説とは異なり、一部の熟練搭乗員を除けば良くて平均レベルの搭乗員が多く「精鋭部隊」と言うほどではなかったという実態も影響していますが、隊長クラスでさえ次々と戦死する中、菅野は戦い続けました。

「大和」が撃沈され、数度にわたる呉軍港空襲で海軍の水上艦艇が壊滅し、沖縄が陥落し、それでも菅野は変わらず先頭を切って戦い続けました。B-29が来襲すれば得意の背面直上急降下攻撃を加え、戦闘機にも殴りかからんばかりの勢いで突っ込み続けましたが、その菅野にもついに運命の日がやってきます

終戦を間近に控えた1945年8月1日、沖縄を出撃し九州へ向かうB-24爆撃機の編隊を迎撃した菅野機から、「ワレ、機銃筒内爆発ス。ワレ、菅野一番」と無線が入りました。

これを聞いた2番機が菅野機を視界に捉えた時には主翼に機銃の筒内爆発(暴発)で主翼に大穴が開きながらも飛行可能で、心配する2番機に「戦場へ戻れ」と怒って追い散らすほどでしたが、戦闘終了後の「空戦ヤメアツマレ」が菅野からの最後の入電でした。

2番機をはじめ僚機が捜索するも発見できず、どの基地にも降りていないため未帰還なのは確かでしたが、明確に空戦で撃墜されたという米軍記録も無いため(それらしい記録はあるが確証無し)、こつぜんと姿を消してしまったのです。

終戦後、戦死扱いで二階級特進となり最終階級は中佐になったものの、その最後は、否、本当に最後だったのかも全く不明のままとなりました。あえて正確な表現を狙うならば、こうなります。

「1945年8月1日、海軍大尉 菅野 直、イマダ帰還セズ」

追記。とあるミステリーあるいは妄想

全くの個人的余談ですが、筆者には「菅野 直が執筆した三四三空の戦記」を某軍事系総合誌で読んだ”記憶”があります。

そのため、「菅野 直」の三文字は精鋭部隊・三四三空とともに筆者に鮮烈な印象を残していましたが、10年ほど後に戦死という”事実”を知りました。慌ててかつて読んだ某軍事系総合誌のバックナンバーをめくると、著者は4文字で別人の名が記されており、唖然として脱力したのです。

現在の事実は紛れもない”戦死”であり、故人やそのご遺族のことを思うと安易に記すべき話では無いかとも思いましたが、あまりにも奇妙な出来事ゆえに、あえて書かせていただきました。この話をどう考えるかは、読者諸兄にお任せいたします。

菅野 直人

物心付いた時には小遣いで「丸」や「世界の艦船」など軍事情報誌ばかり買い漁り、中学時代には夏休みの課題で「日本本土防空戦」をテーマに提出していた、永遠のミリオタ少年。
撤退戦や敗戦の混乱が大好物で、戦史や兵器そのものも好きだが、その時代背景や「どうしてこうなった」という要因を考察するのが趣味。

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