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2017/10/29

菅野 直人

ボロボロになれども、けして我ら屈せず! 不屈の戦艦5選

皆さんは「戦艦」にどのようなイメージを想像されますか? 圧倒的な砲撃力で敵を粉砕するか、どれともボロボロに傷つきながら沈むことなくなお戦い続ける「弁慶の仁王立ち」のような姿か。今回は後者の「不屈の戦艦」を5隻厳選してご紹介します。

5位:巡洋戦艦ヤウズ(トルコ・旧ドイツ巡洋戦艦ゲーベン)

Bundesarchiv Bild 134-B0032, Großer Kreuzer Goeben.jpg
By Bundesarchiv, Bild 134-B0032 / CC-BY-SA 3.0, CC BY-SA 3.0 de, Link

最初にご紹介するのはトルコ海軍の巡洋戦艦ヤウズ。

え? トルコが戦艦なんて持ってたの? なんて思うかもしれませんが、第1次世界大戦で前身のオスマン帝国(オスマン・トルコ)が崩壊するまではそれなりの海軍を持っており、戦艦も保有していました。

ただし、その実態は旧式艦の寄せ集めでロシアはおろかイタリア、ギリシャ海軍に全く対抗できない有様で、第1次世界大戦の開戦を迎えます

当初参戦していなかったオスマン帝国ですが、イギリス海軍やフランス海軍を振り切って本国へ帰還することが絶望的となったドイツ海軍の巡洋戦艦ゲーベンが軽巡洋艦ブレスラウを伴って地中海からダーナネルス海峡を突破してイスタンブールに到達
黒海の入口でオスマン帝国の重要拠点だった同地で両艦はオスマン帝国海軍に譲渡され、乗員はドイツ人のまま巡洋戦艦ヤウズ・スルタン・セリムと軽巡洋艦ミディッリとして再就役しました。

その後オスマン帝国は第1次世界大戦にドイツ側で参戦し、ヤウズ・スルタン・セリムは主に黒海でロシア黒海艦隊を相手に孤軍奮闘、性能や数で勝るロシア戦艦に苦しみつつも、艦砲射撃や輸送船への攻撃に活躍します。
終戦とともにオスマン帝国が解体されトルコ共和国が成立すると、オスマン海軍艦艇はトルコ海軍に移管され、ヤウズ・スルタン・セリムもヤウズ・セリム、最終的にはヤウズと改名して、その後もトルコ海軍に在籍しました。

トルコが中立を貫いた第2次世界大戦には参戦せず、わずかな改装を受けたのみでほぼ就役時の姿のままだった巡洋戦艦ヤウズはその後も1954年に退役するまでトルコ海軍の象徴として洋上にとどまり、1976年に「世界最後の巡洋戦艦」として解体されています。

4位:航空戦艦 伊勢(日本)

Battleship-carrier Ise.jpg
By 不明 – Kure Maritime Museum, (edited by Kazushige Todaka), Japanese Naval Warship Photo Album: Battleships and Battle Cruisers, パブリック・ドメイン, Link

太平洋戦争開戦時には既に旧式化していながら、2度に渡る大改装で長門級戦艦に続く主力艦として、姉妹艦の日向ともども活躍の期待された戦艦伊勢ですが、もはや低速で主砲威力の小さい14インチ砲戦艦の出番はありませんでした。

南雲機動部隊の空母4隻が撃沈されて大敗北を喫したミッドウェー海戦以降、空母不足を補うため改装が検討されますが、工期の長さから限定的な攻撃機運用能力のみ持たせた「史上唯一の航空戦艦」に日向ともども改装されます。

しかし、戦局の悪化で搭載機も無いまま、1944年10月にレイテ海戦のひとつ「エンガノ岬沖海戦」に、小沢艦隊(空母機動部隊・第3艦隊)の1隻として参戦します。

戦艦を中心とした栗田艦隊(第1遊撃部隊・第2艦隊)を米輸送船団に突っ込ませるため、ハルゼー機動部隊をおびき寄せる囮艦隊として猛烈な攻撃を受け、小沢艦隊は空母4隻全てを撃沈されて壊滅しますが、2隻の航空戦艦は沈みませんでした。

連装4基8門が残された14インチ主砲から高角砲、機銃、噴進砲(対空ロケット砲)まであらゆる対空火器が艦上ところ狭しと並べられた航空戦艦の弾幕は凄まじく、空母を仕留めた後の余勢を駆ろうとした敵機を寄せ付けなかったのです。

結局1発の直撃弾も受けることなく本土に生還した伊勢は、日向ともども南方から最後の輸送作戦(北号作戦)に成功して後、出撃することなく防空砲台となります。燃料が無いため機関は動かせず、地上から引いた電力で対空戦闘を行うしか無かった伊勢に多数の敵機が殺到したのは1945年7月24日。

米機動部隊から飛来した艦載機多数の攻撃で原型を留めぬほど破壊され、指揮官のほとんどが戦死するほど苛烈な戦闘が終わってもまだ浮いていた伊勢でしたが、沈没を防ぐため曳航準備中の7月28日、再度の攻撃に耐えかねついに大破着底、戦争を終えました。

3位:戦艦ウォースパイト(イギリス)

1942年にインド洋で行動中の戦艦ウォースパイト
By Oulds, D C (Lt) Royal Navy official photographer –
This is photograph A 11787 from the collections of the Imperial War Museums (collection no. 4700-01)
, パブリック・ドメイン, Link

1915年に就役したイギリス海軍の戦艦ウォースパイトは、最新鋭戦艦として第1次世界大戦最大の海戦であり、「史上最後の戦艦同士の艦隊決戦」ユトランド沖海戦で猛烈な攻撃を受けて大破しますが、からくも沈没を逃れて修理・改装を受け、第2次世界大戦を迎えます

その頃には既に旧式化していた同艦ですが、開戦早々に地中海での輸送船団護衛に活躍、続いて1940年のノルウェー侵攻ではドイツ海軍を迎撃して傘下の駆逐艦ともどもにこれを撃滅しました。
再び地中海艦隊に戻ったウォースパイトは船団護衛や艦砲射撃、イタリア艦隊との戦闘などで忙しく働き、無数の小規模な損傷を受けますが、イタリア海軍の人間魚雷で僚艦が大破、戦線離脱する中でも戦い続けます

しかし1940年9月、ドイツ空軍機の爆撃でついに大破して修理のためアメリカに回航、その間に太平洋戦争が始まったため、修理が未完了のまま急ぎアメリカを出て東洋艦隊に合流のためインド洋に向かいました

インド洋では積極的な反撃に出なかったため出番の少なかった同艦ですが、1943年にはまた地中海に戻ってシシリー島、ついでイタリア本土上陸作戦に参加します。

ドイツ軍の反撃で窮地に陥った友軍を支援するため艦砲射撃を加えていましたが、そこにドイツ空軍が新型誘導爆弾「フリッツX」を投下して2発が命中、航行不能となる大損害を受けてしまいました。

修理のため本国へ帰還した同艦でしたが、ヨーロッパ大陸への反攻作戦を控えて悠長に修理しておられず、主砲や機関が完全に復旧しないまま出撃、1944年6月のノルマンディー上陸作戦に参加して猛烈な艦砲射撃を加えましたが、そこでも機雷により損傷します。

「満身創痍のウォースパイト」はそれでも応急修理のみでドイツ軍への艦砲射撃を続け、ようやく予備役への編入が認められたのは1945年2月のことでした。

あまりの奮闘ぶりに記念艦として保存も検討された同艦でしたが、1947年ついに解体が決定、しかし解体所まで曳航する間に嵐で勝手に漂流をはじめ、座礁するまで解体業者から逃走するという「最後の奮戦」を見せています。
ようやく解体が終わったのは1950年のことで、長い歴史と活躍を誇るイギリス海軍の中でも「ウォースパイト」の名は「尊厳」や「勇気」の代名詞として伝説となりました。

2位:巡洋戦艦ザイドリッツ(ドイツ)

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By Atelier Heinr. Meents, Wilhelmshaven, – Naval Historical Center., パブリック・ドメイン, Link

「猛烈な攻撃でボロボロになりながら沈まなかった戦艦の代名詞」と言われるのが第1次世界大戦時のドイツ巡洋戦艦ザイドリッツです。

1913年に就役したばかりの最新鋭艦としてユトランド沖海戦に参加した同艦は、ドイツ巡洋戦艦隊の1艦としてイギリス巡洋戦艦隊と激しい砲撃戦を戦い、イギリス巡洋戦艦クイーン・メリーを爆沈させます。

しかし、その返礼として周囲にいたイギリス戦艦、巡洋戦艦から猛烈な砲撃を受けたザイドリッツは後に判明しただけで21発の敵主砲弾と魚雷1本が命中して大破、特に艦首の浸水が著しく、沈没の危険にさらされました。

それでも帰還をおきらめず、戦線を離脱すると後進わずか3ノットの微速でノロノロと基地のヴィルフェルムスハーフェンにたどりつき、あまりの浸水で港内に外れず座礁はしたものの、ともかく原型を留めぬほどボロボロになりながら帰還します。

応急排水で離礁してドック入りに成功したことで沈没を免れ、ザイドリッツは「ドイツ海軍の主力戦闘艦艇がいかに優れた防御力を持つタフな存在か」を世界に証明したのです。対するイギリス海軍の巡洋戦艦はドイツ艦の砲撃で次々に爆沈したのとは対照的でした。

1位:戦艦マラート/ペドロパブロフスク(ソ連)

Petropavlovsk-Helsingfors.jpg
By Неизвестен. Unknown – Архив фотографий кораблей русского и советского ВМФ., パブリック・ドメイン, Link

ロシア海軍の最新鋭弩級戦艦、ガングート級戦艦の2番艦「ペドロパブロフスク」として1914年に就役したものの、その後ロシア革命を経て1921年にソ連海軍戦艦「マラート」と改名
革命の混乱で大型艦の建造能力を失ったソ連海軍で重要な戦力となり、1930年前後の近代化改装を経て1941年6月に対独戦の開戦を迎えます。

同年9月に始まったレニングラード包囲戦で同地に留まった同艦は艦砲射撃で友軍を支援するものの、急降下爆撃の名手・ハンス・ウルリッヒ・ルーデルの狩るユンカースJu87Dから投下された1トン爆弾が命中、第2主砲塔から前部を失います。

しかし、不屈のマラートは艦の3分の1を失った状態で応急修理により砲撃能力を復旧し、ドイツ軍砲兵からの砲撃にまでさらされながら、艦砲射撃でレニングラードの友軍を支え続けました。

包囲下でまともな修理もできない中、重要区画にセメントを流し込んで敵の攻撃に耐え、戦艦というより「海上要塞」と化し、1943年5月には旧名の「ペドロパブロフスク」に再改名しながらも戦い続けます。

結局、ドイツ軍のレニングラード包囲網が途中から戦略の変更や戦力不足で消極的なものになったこともあって、同艦は1944年1月のレニングラード解放まで戦い続け、生き延びました。その後大反攻に転じたソ連で早急な復旧が必要とされなかったため同艦の本格修理は戦後のこととなり、1951年に砲術練習艦「ヴォルホフ」を再改名の上で復帰しましたが、1953年に除籍解体

ドイツ軍の包囲戦を勝ち抜いたレニングラード(現在のサンクト・ペテルブルク)そのものが「英雄都市」の称号を与えられ称えられましたが、その中でも不屈の闘志で原型を留めぬまま戦い抜いた戦艦マラート/ペドロパブロフスクも、忘れられない存在です

菅野 直人

物心付いた時には小遣いで「丸」や「世界の艦船」など軍事情報誌ばかり買い漁り、中学時代には夏休みの課題で「日本本土防空戦」をテーマに提出していた、永遠のミリオタ少年。撤退戦や敗戦の混乱が大好物で、戦史や兵器そのものも好きだが、その時代背景や「どうしてこうなった」という要因を考察するのが趣味。

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