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2017/10/19

菅野 直人

日米機動部隊の短く熱かった対決! 空母決戦BEST5+1

空母機動部隊同士が、互いの艦隊を直接見ることもなく艦載機を飛ばしあって叩き合う「空母決戦」。第2次世界大戦後はフォークランド紛争で一度チャンスがあったきりで二度と起きていませんが、日米の間で数は少ないながらも激しく戦われた空母決戦をご紹介します。

第5位:消極的な戦いに終始・第二次ソロモン海戦(1942年8月23~24日)

USS Enterprise (CV-6) under attack and burning during the Battle of the Eastern Solomons on 24 August 1942 (NH 97778).jpg
By U.S. Navy – Official U.S. Navy photo NH 97778 (cropped) from the U.S. Navy Naval History and Heritage Command, パブリック・ドメイン, Link

攻撃を受ける米空母エンタープライズ
 
何度か行われた日米空母決戦の中でも、小競り合い程度で双方ともに決定的な行動を行わなかった珍しい戦い。

日本側第3艦隊(南雲中将)はミッドウェー海戦で大敗北を喫した南雲機動部隊(第1機動部隊)を再編成した戦力で、空母「翔鶴」「瑞鶴」の主隊と、別動隊の軽空母「龍驤」の2隊で、これに加えて別行動の水上戦闘隊、第2艦隊の3群で行動。米第61任務部隊(フレッチャー通常)は空母サラトガ、エンタープライズ、ワスプを3群に分けて行動

日本側はあくまでガダルカナル島への増援輸送とその支援が任務だったことや、ミッドウゼー海戦敗北直後で慎重な艦隊運用、それでいながら前線部隊の連携不足といった要因もあり、エンタープライズに損傷を与えた程度で深追いはせず

逆に米攻撃隊に龍驤を撃沈され、ヘンダーソン飛行場(ガダルカナル島)航空隊の攻撃で増援輸送の船団が撤退するなど、日本側の消極的戦闘で何の成果も上げられない戦いとなりました。

第4位:米艦隊の執念と、臆する日本艦隊・珊瑚海海戦(1942年5月8日)

Coral Sea Explosion Lexington2.jpg
パブリック・ドメイン, Link

日本軍の攻撃を受け炎上するアメリカ海軍空母レキシントン
 
史上初の「最初から最後まで一度も互いの艦隊を目視確認しなかった」空母決戦。

ニューギニア南東部のポートモレスビー(現在のパプアニューギニア首都)を攻略する「MO作戦」の一環として日本側第4艦隊(井上中将)が作戦を担当。攻略用の上陸部隊と、それを支援するため第1機動部隊から第五航空戦隊(空母翔鶴・瑞鶴)が編入されました。

当時はまだ日本側が大きな負け知らず、しかも1個航空戦隊とはいえ無敵の名を欲しいままにしていた機動部隊が加わったことで問題無く攻略可能と思われたものの、戦略的要地を守るためアメリカも乏しい戦力から機動部隊(空母レキシントン、ヨークタウン)で迎撃

米豪連合軍第17任務部隊(フレッチャー少将)は先制攻撃に成功して上陸部隊の支援につけられていた軽空母「祥鳳」に猛攻を加えて撃沈

日本側(第五航空戦隊・原少将)も反撃してレキシントンとヨークタウンを撃破、大破したレキシントンは航空機用ガソリンや弾薬の誘爆で復旧不能となり沈没、ヨークタウンも遁走させます。

しかしその前に米攻撃隊も翔鶴を撃破、戦闘不能に陥れており、損害に狼狽した日本側指揮官が戦意喪失したことでMO作戦は中止、日本側の敗北となってしまいました。

第3位:七面鳥は散った・マリアナ沖海戦(1944年6月19~20日)

Japanese aircraft carrier Zuikaku and two destroyers under attack on 20 June 1944 (80-G-238025).jpg
By 不明 – U.S. Navy photo 80-G-238025, パブリック・ドメイン, Link

アメリカ軍の攻撃を受ける空母瑞鶴と駆逐艦2隻
 
ミッドウェー海戦で主力空母の大半を失い、ソロモン戦での空母決戦やその後の不足した戦力を補うため母艦航空隊を陸上基地からの航空撃滅戦(「い号作戦」「ろ号作戦」)につぎ込んだ結果、熟練搭乗員まで多くを失い、1943年には事実上日本空母部隊は壊滅します

しかし、未熟な搭乗員までかき集めて新旧混合の艦載機に乗せ、新造、あるいは改造した空母/軽空母9隻に搭載第1機動艦隊を出撃させたのがマリアナ沖海戦です。

前述のように、この時点で日本の空母機動部隊は既に質的な戦闘力を喪失しており、ただ数だけ揃えた烏合の衆も同然でしたが、それに加えて空母航空戦の権威と言われた第1機動艦隊司令長官、小沢中将の採用した戦術も問題でした。

搭乗員の質的に無理な「アウトレンジ作戦」(敵機の航続距離外から長距離飛行で一方的に攻撃)を強行した結果、多数の戦闘機隊に待ち伏せを受けた攻撃隊は「マリアナの七面鳥撃ち」と言われる大損害を受けて壊滅

アメリカ側第58任務部隊(ミッチャー中将)も急速な戦力拡充で搭乗員の内実は似たようなものでしたが、手堅い作戦と空母7隻、軽空母8隻の数で押したことから一方的な展開となります。

日本側は序盤で最新鋭の装甲空母大鳳と空母翔鶴を潜水艦の雷撃で失い、空襲で改造空母飛鷹沈没、空母瑞鶴、改造空母隼鷹、改造軽空母龍鳳、千代田が損傷し、搭載機とその搭乗員はほとんど帰還せず、米艦隊にはほとんど損害を与えられませんでした。

マリアナ諸島(サイパン・テニアン島など)という「絶対国防圏」防衛のために無理を押した出撃、そして無理な作戦と全て裏目に出た日本は、この作戦以前から既に戦争継続能力を失っていたと言えます

第2位:猛将角田少将突撃す・南太平洋海戦(1942年10月26日)

Japanese aircraft attack USS Hornet (CV-8) during the Battle of the Santa Cruz Islands on 26 October 1942 (80-G-33947).jpg
By 不明 – U.S. Navy photo 80-G-33947, パブリック・ドメイン, Link

空母ホーネットに急降下爆撃中の九九艦爆
 
ガダルカナル島奪還のための天王山、日本陸軍によるヘンダーソン飛行場占領を支援するため出撃した日本艦隊と、それを迎撃する米艦隊も出撃可能な空母全力を出撃させた太平洋戦争前半最後の空母決戦

この戦いでは序盤に空母翔鶴と軽空母瑞鳳が被弾戦闘不能、翔鶴で指揮をとっていた第三艦隊指揮官(南雲中将)から、航空戦の指揮が第二艦隊第二航空戦隊指揮官(角田少将)に移譲されたことでその後の様相が一変します。

着艦不能になった瑞鳳や翔鶴の搭載機まで第三艦隊の瑞鶴や第二航空戦隊の隼鷹に収容した角田少将はそれこそ鬼のような勢いで米艦隊を追い立て、既に損傷していた米空母ホーネットに繰り返し攻撃隊を送って大破放棄(後に沈没処分)。エンタープライズも撃破戦闘不能に追い込み、文字通り米機動部隊を戦闘海域から叩き出します

猛将・角田少将の代表的なエピソードではありますが、それを実現するため搭乗員や機材に相当な無理をかけなければいけなかったのも事実で、この戦いで日本空母機動部隊も一度壊滅しばらく積極的な行動が取れなくなりました

それより問題だったのは陸軍のヘンダーソン飛行場奪回作戦が失敗したことで、以後空母の積極投入を控えた日米両軍は、陸上基地の航空隊や水上戦闘艦艇で血みどろの戦いを繰り広げることになります。

第1位:青天の霹靂・ミッドウェー海戦(1942年6月5~7日)

Midway Atoll.jpg
By USN – Official U.S. Navy photo 80-G-451086 from the U.S. Navy Naval History and Heritage Command, パブリック・ドメイン, Link

真珠湾攻撃直前のミッドウェイ環礁
 
太平洋戦争序盤、「世界最強の艦隊」の名を欲しいままにした南雲中将率いる「南雲機動部隊」こと第1機動部隊が壊滅した大海戦であり「大事件」

前述の珊瑚海海戦で第五航空戦隊の空母2隻が戦闘不能となったもの、残る空母4隻(赤城・加賀・飛龍・蒼龍)だけでも日本側は自信満々で、対するフレッチャー少将およびスプルーアンス少将の米機動部隊およびミッドウェー防衛隊は悲壮感に包まれていました。

アメリカ側とすればミッドウェーを失えば次の目標であろうハワイ防衛も心もとなく、何としても南雲機動部隊を食い止めなければいけません。

珊瑚海海戦で空母ヨークタウンをボロボロにされながら、何とかハワイの真珠湾に帰還したフレッチャー少将など「ただちにヨークタウンを修理して出撃せよ」と言われて仰天したものの、それでも最低限の応急修理だけで出航、修理しながら出撃します。

結果、日本側の慢心や徹底的に運に見放されたようなタイミングの悪さ、そこに全力をつぎ込んで攻撃したアメリカ側の執念もあって、米空母(ヨークタウン、エンタープライズ、ホーネット)の急降下爆撃により、赤城・加賀・蒼龍が大破炎上、撃沈されてしまいます。

残る最後の日本空母、飛龍は単独でヨークタウンを撃破(後に伊号168潜水艦により撃沈)する執念を見せたものの、飛龍もまた撃沈され、「世界最強の南雲機動部隊」はここに壊滅、日本側としては取り返しのつかない事態になりました。

燃料事情や戦力の限界から「相手が損害を回復する前にひたすら攻め続ける」以外に勝ち目の無かった日本は、このミッドウェー海戦敗北により、もともとゼロに等しかった勝てる可能性が皆無になってしまったのです。

次点:最後の一発まで・エンガノ岬沖海戦(1944年10月24~25日)

Japanese destroyer Akizuki in 1944.jpg
By 米国海軍 – Naval Historical Center. Originally the text, “Photo #: 80-G-284703 Battle off Cape Engaño, 25 October 1944”., パブリック・ドメイン, Link

大爆発を起こす駆逐艦秋月
 
マリアナ沖海戦で壊滅した日本海軍第一機動艦隊は戦力回復に努めましたが、台湾沖航空戦で回復途中の母艦航空隊までつぎ込み壊滅するという、ソロモン戦と全く同じ失敗により、空母はもはや単なる「搭載機もロクにない箱」に成り下がります。そうなると広い格納庫を使って輸送艦に使うくらいですが、もうひとつだけ用途がありました。

フィリピンのレイテ島に押し寄せた連合軍に対し、日本海軍連合艦隊は「捷一号作戦」を発動、戦艦を中心とした殴り込み部隊を使って上陸船団を撃滅すべく、その間に強大な米機動部隊を引き付けるとして、第一機動艦隊の空母部隊、第三艦隊に出撃を命じます

空母瑞鶴、軽空母瑞鳳・千歳・千代田、航空戦艦伊勢・日向を中心に寄せ集めた第三艦隊は、一応戦闘力を維持しているように見せるため護衛空母の搭載機まで借りて出撃、米空母に最後の攻撃隊を送り出しますが、「母艦に帰らなくて良い」と命令

1944年10月25日8時15分、米空母部隊からの第一次攻撃隊来襲により、まだ残っていた艦隊直衛用の零戦数機が慌ただしく出撃、それが日本空母から出撃した、最後の母艦搭載機となりました。その後の戦闘は一方的で、もはや「空母決戦」と呼べるものではありません。

16時25分、最後まで浮かんでいた軽空母千代田を米巡洋艦部隊が発見、なおも反撃する千代田に砲撃開始、16時47分沈没を確認。総員戦死。

菅野 直人

物心付いた時には小遣いで「丸」や「世界の艦船」など軍事情報誌ばかり買い漁り、中学時代には夏休みの課題で「日本本土防空戦」をテーマに提出していた、永遠のミリオタ少年。撤退戦や敗戦の混乱が大好物で、戦史や兵器そのものも好きだが、その時代背景や「どうしてこうなった」という要因を考察するのが趣味。

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