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2017/10/13

菅野 直人

歴史を今に伝える、世界の記念艦(博物館船)5選

世界中には「記念艦」あるいは「博物館船」といった形で昔の軍艦などを保管している例があります。当然勝った方がそういう例が多く、米国など戦艦がゴロゴロしていますが、日本でもそうしたフネはあり、それも含めて世界から5隻ほどピックアップしてみましょう。

戦列艦 ヴィクトリー(英)

HMS Victory 2015.jpg
By Mkooiman投稿者自身による作品, CC 表示-継承 4.0, Link

何と1765年進水と言いますから、艦齢250年を超える老艦であり、まだ木造帆船の舷側(横側)に多数の砲を並べていた時代の主力艦「戦列艦」最後の生き残り

ナポレオン・ポナパルト(ナポレオンI世)時代にフランスやスペインなど同盟国とイギリスなどヨーロッパ連合が戦ったナポレオン戦争で、英本土近海の制海権を巡って戦われた海上大決戦「トラファルガー海戦」(1805年)で戦いました

イギリス艦隊の旗艦としてフランス・スペイン連合艦隊を撃滅したヴィクトリーは、その戦いの最中に艦上で戦死したネルソン提督とともに、ロイヤル・ネーヴィ(イギリス王立海軍)の栄光の象徴になったのです。

1812年以降は練習船となりましたが、1922年からはポーツマスの乾ドックで記念艦として展示されていますが、同時に現在でもロイヤル・ネーヴィのトップである第一海軍卿の旗艦として、書類上は英海軍の現役艦として扱われています

駆逐艦 ブリスカヴィカ(ポーランド)

ORP Blyskawica na Atlantyku.jpg
パブリック・ドメイン, Link

第2次世界大戦前にイギリスで建造、就役したグロム級駆逐艦の1隻

1939年9月1日のドイツ軍によるポーランド侵攻(と、その後のソ連軍による挟み撃ち)でポーランドは瓦解しますが、開戦近しと判断された時点でポーランド海軍の損失を防ぐ「ペキン作戦」を発動

ブリスカヴィカなど3隻の駆逐艦は8月30日にポーランドを脱出し、間一髪でイギリスに逃げ込みました。その後は祖国が降伏後も僚艦ブルザ、グロムとともに自由ポーランド海軍として連合軍艦艇とともに戦い続け、船団護衛などに活躍、ブルザとともに第2次世界大戦を生き残ります

戦後ポーランドに帰還し、1976年からは先に記念艦となっていたブルザがスクラップになるのに伴い、代わって記念艦として保存されることとなり、2017年現在もグディニヤで健在です。

フリゲート艦 コンスティチューション(米)

マサチューセッツ湾を航行中のコンスティチューション
By Journalist 2nd Class Todd Stevens – http://www.chinfo.navy.mil/navpalib/ships/constitution/sail-pix.html, パブリック・ドメイン, Link

前述のヴィクトリーよりは新しいものの、1797年進水で艦齢200年を超える老嬢

100門以上の大砲で武装した戦列艦ヴィクトリーよりは小さい、44門の大砲を持ったフリゲート艦でしたが、独立間もない当時のアメリカ海軍の主力艦として1812年の米英戦争で活躍

木造艦でありながら強靭な船体でイギリス海軍の砲弾を跳ね返したことから「オールド・アイアンサイズ」の異名を誇りました。その後も練習艦などとして現役にあり続け、退役は何と就役から80年以上たった1882年

しかしその後もアメリカ海軍の象徴として洋上にあり続け、1931年にはなんと再就役

1992年から44か月の大修理を終えてからは116年ぶりに自力航海可能となり、現在もアメリカ海軍籍にあることから、「世界最古の現役海軍艦艇」となりました。

基本的にはボストンのチャールズタウン海軍基地の1号桟橋に係留されているものの、時には出航してイベントに参加、礼砲を放つなど元気な姿を見せています。

巡洋艦 アヴローラ(ロシア)

Aurora 1903.jpg
By Sailor of Imperial Russian Navy – http://www.aurora.org.ru/eng/index.php?theme=photo (photo in the top left corner), パブリック・ドメイン, Link

日本式に言うと「オーロラ」1903年にロシア帝国海軍で就役後、最新鋭の防護巡洋艦としてバルチック艦隊に編入、日露戦争のため極東へ向かいます。

しかし1905年5月、ようやく目的地のウラジオストクも間近になった対馬海峡で日本海軍連合艦隊による迎撃を受け(日本海海戦)、艦長戦死など損害を受け僚艦と共に逃走、フィリピン(当時はアメリカ領)のマニラに逃げ込み、そこで日露戦争が終わるまで抑留されました。

1906年にバルト海に戻ってバルチック艦隊に復帰、練習艦となりますが、第1次世界大戦の勃発で巡洋艦として現役復帰。

1917年にペドログラード(現在のサンクトペテルブルク、当時のロシア帝国首都)で十月革命が始まると、アヴローラの砲撃を合図に冬宮殿に軍事革命委員会の部隊が突入して二月革命でロマノフ王朝打倒後の臨時政府を打倒しました。

その後、内戦などを経て1922年のソヴィエト社会主義共和国連邦樹立のきっかけとなった功績を称えられ、第2次世界大戦終了時に大修理を受け、1956年以降は博物館船としてサンクトペテルブルク市内のネヴァ河畔に係留されます。

ソヴィエト崩壊後も文化的・歴史的に重要な船として引き続き公開されることが決定され、修理の後2016年にネヴァ河畔に帰ってきました。

戦艦 三笠(日本)

Mikasa05.jpg
By by Monado – photo by Monado, CC 表示-継承 3.0, Link

前述のアヴローラを含むロシア・バルチック艦隊を撃滅した日本海海戦で、日本連合艦隊の旗艦を担った、1905年当時の最新鋭戦艦

日露戦争直後に爆発事故により佐世保港で沈没、1923年の関東大震災ではと横須賀港で岸壁に衝突して着底、1925年から修理の上で記念艦として保存されるも、第2次世界大戦直後は進駐軍に加わったソ連軍に解体されそうになったり米軍にキャバレーに改装されたりと、割と乱雑な扱いをされました。

しかし、米軍将兵の慰み者になっている様子が日本海海戦で勝利の立役者となった連合艦隊司令長官・東郷平八郎元帥を敬愛していた米海軍のチェスター・ニミッツ元帥の耳に入ると、元帥は大激怒。

結局、ニミッツ元帥などの尽力でどうにか記念艦として復旧することととなり、チリ海軍の退役戦艦、アルミランテ・ラトーレを日本で解体した時に出た部品(同艦は三笠と同じイギリス製で、時代は違えど共通部品があった)などを使い、復旧工事が行われました。

1961年以降は防衛省所有で海上自衛隊横須賀地方総監部が管理する「旧三笠保存所」という扱いで公開されて今に至っています。

なお、1925年に最初の記念艦としての工事が行われた時点で海底とはコンクリートで結合されており、厳密には「海上に浮かんでいる」わけではありません。しかし、「世界で最後に残った前弩級戦艦」(画期的な英戦艦ドレッドノート以前の、旧時代の戦艦)として、歴史的に貴重な海軍遺産となっています。

菅野 直人

物心付いた時には小遣いで「丸」や「世界の艦船」など軍事情報誌ばかり買い漁り、中学時代には夏休みの課題で「日本本土防空戦」をテーマに提出していた、永遠のミリオタ少年。撤退戦や敗戦の混乱が大好物で、戦史や兵器そのものも好きだが、その時代背景や「どうしてこうなった」という要因を考察するのが趣味。

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