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2017/10/7

菅野 直人

綱渡りの終戦と、終わらなかった戦い。終戦前後に起こった出来事5選

1945年8月15日の玉音放送で日本は連合国への降伏を表明し、大日本帝国の解体へと突き進んでいくわけですが、つい昨日まで「1億玉砕!本土決戦!」と叫んでいたのが急に何の問題も無く収まるわけもありません。8月15日正午の玉音放送に至る決定的な出来事は何だったのか、そしてその前後に起こった事とは。

人類史上初、そして最後になってほしい原爆投下(広島・8月6日 / 長崎・8月9日)


1945年8月6日8時15分、奇しくも玉音放送の日と符合するような時間に、広島県広島市上空で、強烈な閃光が煌めきました。

B-29「エノラ・ゲイ」号が透過した「リトルボーイ」によるウラン235の核分裂反応の光。人類史上初の核攻撃が行われた瞬間です。この一撃で広島市は壊滅、たった一発で都市を壊滅させる原子爆弾の威力は、核攻撃を受けた日本だけでなく、世界中を震撼させました。

さらにその3日後、8月9日11時02分には長崎県長崎市上空で2つ目の閃光。B-29「ボックスカー」号が透過した「ファットマン」のプルトニウム239による核分裂反応は、2017年現在に至るまで人類が最後に行った核攻撃となりました。

この2発の原子爆弾(核爆弾)により、日本は本土決戦で航空戦とも地上戦とも異なる攻撃により、一方的な大打撃を受ける可能性が高いことを認識せざるをえなくなります。そして長崎への原爆投下と同日、既に同年4月に日ソ中立条約の破棄を通告していたソ連が日本へ宣戦布告し、満州や樺太への侵攻を開始、南方へ戦力を抽出されて弱体化していた日本軍や、脱出の間に合わなかった民間人を蹂躙し始め、満州国も崩壊。

南からは原子爆弾による破壊、北からはソ連軍による領土の占領という待った無しの事態が襲いかかり、ついに日本もこれ以上の抗戦を断念せざるをえなくなったのです。

玉音盤の危機・近衛第一師団の叛乱(8月15日・東京)

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By loki11 – l’Illustration, パブリック・ドメイン, Link

日本政府は御前会議で天皇陛下(昭和天皇)の判断を仰ぎ、1945年8月14日にポツダム宣言受託を正式に決定。

8月14日23時30分に宮内省(現在の宮内庁)内廷庁舎政務室で玉音盤への録音が行われましたが、8月9日には極秘で終戦詔書(玉音放送の内容)の起草が始まっており、8月10日0時からの御前会議で既に受託そのものは決定されていました。

これに対し、「国体護持(天皇制の存続)が保証されていない」と降伏に反対する声が大きかった陸軍では精鋭中の精鋭、近衛第1師団による宮城(皇居)占拠により降伏を撤回させようとする叛乱(クーデター)計画が始動します。

玉音盤への録音が終わり、金庫に保管された8月15日0時過ぎ、近衛歩兵第二連隊が行動を開始、ほぼ同時に近衛第一師団長森中将が叛乱へ加わるよう説得に来た陸軍省軍務局課員、畑中中佐により殺害。宮城(皇居)は宮内省および皇宮警察も含め近衛第一師団に占拠され、玉音放送を流すはずの放送会館(NHK東京放送会館)も占拠されてしまいます。

しかし、上位組織の東部軍が森師団長が殺害され、命令が偽造であることを伝えたことで、近衛第一師団の各部隊は撤収、玉音盤の奪取や破壊も危ういところで免れたのです。

無事に放送会館に運ばれた玉音盤の放送を間近に控えた8月15日11時30分、放送会館内のスタジオで1人の憲兵将校がいきなり抜刀してスタジオへの突入を図りますが、すぐに取り押さえられ、これが玉音放送最後の危機となりました。そして1945年8月15日12時、日本は危うい綱渡りの末に、その運命の時を迎えたのです。

我ら降伏せず・海軍厚木三◯二空の叛乱(8月15~21日)


しかし、玉音放送を聞いてもなお、それを受け入れない部隊が存在しました。それらはめいめいに「抗戦継続!」を叫びますが、その中でももっとも大規模な叛乱を行ったのが、海軍で東京防空を担当していた厚木飛行場の第三◯二航空隊です。

司令官の小園安名大佐が先頭を切って上位組織の連合艦隊に「指揮下からの離脱」を宣言し、抗戦継続を呼びかけるビラを刷って稼働全機を出撃させ、全国各地にビラを散布。

他部隊にも同調を説いて回るなど放置できない異常事態となりましたが、指導者の小園大佐が持病のマラリアの発作で倒れたのを機に急速に収束し、8月21日には完全に鎮圧され、居座っていた隊員も全て退去させられます。

連合国による占領軍第一陣、米陸軍のC-54輸送機がこともあろうにその厚木基地に降り立ったのは、それからわずか1週間後の8月28日でした。

抗議の自爆? 非公式戦史? 宇垣特攻(8月15日)

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By Chiran Kamikaze Peace Museum (http://www.town.chiran.kagoshima.jp//cgi-bin/hpViewContents.cgi?pID=20041215093148, パブリック・ドメイン, Link

近衛第一師団や海軍三◯二空とは別な形で降伏反対の意志を示した者もいました。

それまで沖縄戦で多数の特攻隊を出撃させていた海軍第五航空艦隊司令長官、宇垣 纏中将(開戦時の連合艦隊参謀長)は玉音放送終了後に、「停戦命令が出ていない」という理由で自ら特攻出撃。5機準備する予定が、稼働可能な艦上爆撃機「彗星」11機全てが出撃を希望したため、結局全機が出撃してしまいます。

しかし、出撃11機中不時着した3機を除く8機の消息はその後よくわかっておらず、突入を察知した米軍がこれを迎撃した記録もありません。海面や島などに突入自爆した目撃談はあるため、実際には降伏に抗議するための集団自決では無かったかとも言われています

ただし、資料によっては該当する戦闘があったとする説もあり、その場合は停戦をスムーズに進めるため公式資料には残されなかったのかもしれません。

ソ連参戦(8月9日~9月5日)


8月9日、長崎への原爆投下と同日にソ連が対日宣戦布告し満州や樺太などに侵攻を開始したことは既に触れましたが、玉音放送と共に自衛戦闘以外の戦闘行為を止めたほとんどの連合軍とは異なり、ソ連軍だけは侵攻を止めませんでした

もちろん、単に停戦命令が届かない、あるいはそれに従わない日本軍が抗戦を継続したケースもありましたが、中には停戦命令を受けて白旗を揚げた日本軍の軍使を攻撃して殺害したり、避難民を乗せた船舶を潜水艦でいきなり撃沈したケース(三船殉難事件)まであったのです。

ソ連軍は明らかに占領地域を可能な限り急速に拡大するため、停戦による武装解除の手間を省くかのような「攻撃」を続けており、特に南樺太(現在のサハリン島南部、正式には戦後の帰属未確定地域)では早期占領後にソ連軍が北海道に侵攻する計画すらありました

そのため、結果的に日本軍は停戦のつもりが攻撃されて自衛のため反撃するという繰り返しが各所で起こり、陸軍第88師団を中心とした日本軍樺太防衛部隊の善戦(8月24日まで戦闘続行)やトルーマン米大統領による強硬な反対で、北海道侵攻だけは避けられたことになります。

しかし、9月5日にソ連軍の攻撃が終了した時、9月2日に東京湾の米戦艦ミズーリ艦上で行われた降伏文書調印(もちろんソ連代表も参加)によって、太平洋戦争(そして第2時世界大戦)はとっくに終わっていました

菅野 直人

物心付いた時には小遣いで「丸」や「世界の艦船」など軍事情報誌ばかり買い漁り、中学時代には夏休みの課題で「日本本土防空戦」をテーマに提出していた、永遠のミリオタ少年。撤退戦や敗戦の混乱が大好物で、戦史や兵器そのものも好きだが、その時代背景や「どうしてこうなった」という要因を考察するのが趣味。

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