- コラム
実戦配備直前! など惜しかった試作機BEST5(米軍機編)
2017/10/11
菅野 直人
すごいー! たーのしー!
2017/09/23
菅野 直人
配備されてロクに実戦も経ないまま終戦になるなど「遅すぎた傑作機」的な飛行機はどこの国でもありますが、日本でもそうした飛行機はあります。特に日本の場合は終戦とともに全ての新型機開発が凍結、既存機とは違いその後連合軍がテストした機体も少なく、未知数で終わった飛行機もありました。
パブリック・ドメイン, Link
昭和18年(1943年)と戦争もいい加減大詰めになり始めた頃に試作開始された割にはかなり早く完成していた、海軍の陸上双発重戦闘機。
2,000馬力級の「誉(ほまれ)」エンジンを搭載し、最高速度667km/hと良好な操縦性、重武装を満たすという過酷な条件に対し、中島飛行機(現在のスバル)は思い切った小型軽量化を図った機体を開発します。
しかし、期待の新エンジンながら個体差の激しかった「誉」が天雷の試作機ではハズレを引いてしまったようで出力不足、空力的にも問題があったようで、速度や上昇力が要求をみたせず。せっかく1944年3月には1号機が初飛行したのに、同年秋には開発中止されてしまいました。
海軍ではB29の夜間爆撃に対抗できる夜間戦闘機「月光」を同時期に生産中止してしまっており、「電光」や「極光」など他の後継機も試作で終わったり役に立たなかったため、天雷が月光の後継機として配備されていればと、惜しいところです。
By US Army – http://www.ijaafphotos.com/jbwki831.htm, パブリック・ドメイン, Link
三菱が陸軍からの要求で1941年から開発した、偵察にも使える長距離双発重戦闘機。1942年4月のモックアップ(実物大模型)完成段階から軍の要求が二転三転して定まらず、結局「あれもこれも」式に詰め込んで重量増加の役立たず飛行機になる日本でよくあるパターンになりかけました。
しかし、同機に関しては三菱の設計者がうまくごまかしが効くような、よく言えば割り切った設計に成功し、1944年10月に初飛行しました。日本機としては非常に希なことに、新型エンジン・ハ214ルの排気タービン(ターボチャージャー)がさほどトラブルも無くうまく作動し、高度8,000mで最高速度686.2km/hを記録。
問題が無かったわけでは無いものの増加試作機も完成し、新型の重戦闘機として期待されたものの大地震(昭和東南海地震)や空襲で生産続行が困難になってしまいました。完成度が高かったためか、戦後進駐してきたアメリカ軍が珍しく試作機をテストしており、なんとアメリカ軍仕様のハイオクガソリンを使った試作1号機が高度7,000mで最高速762km/hを記録しました。
試作機とは言え当時使われていたアメリカ軍のいかなるプロペラ戦闘機より高速で、モックアップ完成後のゴタゴタや初飛行後の大地震などが無ければ……と悔やまれます。
パブリック・ドメイン, Link
戦前からジェットエンジンを研究していた日本ですが、どうにかジェットエンジンのみで飛行可能な飛行機を作れたのは戦争終了直前でした。
主翼の左右にジェットエンジン「ネ20」を取り付けた特殊攻撃機「橘花」は、その名称から特攻兵器と思われることもありますが、実際にはガソリンではなく備蓄の豊富な軽油などを活かして何度も出撃可能な、戦闘攻撃機として開発されています。
実際、試作が進めば機関砲搭載型も登場予定でしたが、それを活かすだけの性能を持つかどうかは、結局わからずじまいで終わりました。1945年8月7日、木更津飛行場で行われた初飛行で12分間の飛行に成功、日本で初めてジェットエンジンのみで飛行した飛行機(それ以前に空中でジェットエンジンを補助的に起動した試験は行われていた)となります。
しかし、結局飛行に成功したのはその1度きりで、次に日本が国産ジェット機を飛ばすのは13年後、航空自衛隊用の練習機T-1を待たねばなりません。
By Daylight9899 – 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 3.0, Link
まるでジェット機かと思うような機体の最後部にエンジンとプロペラを搭載し、空いた前部には大口径機関砲を集中搭載、B29ですら一撃で撃墜することを期待された新鋭戦闘機「震電」。
エンテ翼と呼ばれた、後ろに主翼・前に普通の飛行機で言う尾翼に当たる小翼を設けた特異な形状をしており、左右主翼の途中には垂直尾翼がありましたが、大直径プロペラが離陸時に地面に当たるので、垂直尾翼下端に補助輪がついています(量産機では無くなる予定)。
他の国でも同種の戦闘機はいくつか作られ、スウェーデンのサーブ21を除いて全て失敗したことから「震電」の実力も疑問視されてはいますが、機体形状に無理が無いことを実験機MXY6で確認していたので、飛行性能そのものは悪くなかったのではと言われています。
もし、問題が起きるとすれば、エンジンが果たしてカタログ通りの性能を出せたかどうだったかでしょう。なぜこのような書き方になるかといえば、震電もまた1945年8月に3回飛行しただけで終わってしまったためで、案の定エンジンが故障してそのまま終戦になってしまいました。
進駐軍が珍しがったのか、ほぼ無傷で残っていた試作1号機を「ちょっと飛ばしてみせろ」と言ったものの、操縦者や整備員が復員していなかったものか、代わりのエンジンが届いていなかったのか、結局その後飛ばずに終わったのは残念でした。
現在もアメリカのスミソニアン博物館に分解状態で保存してあるので、いつか飛ぶ日が来ると良いのですが。
By 不明 – http://www.flickr.com/photos/sdasmarchives/7585515016/in/set-72157630610709398, パブリック・ドメイン, Link
川崎航空機が陸軍の指示で試作した、二式複座戦闘機「屠龍(とりゅう)」の後継機。1942年8月の試作指示に対し、1年も立たない1943年6月に試作機が完成するという早業で、これは当時の川崎航空機にいた、既存機や他の試作機の設計を流用して割と手軽に高性能機を作る名人・土井 武夫 設計士の得意技。
屠龍より空力的にリファインされ、エンジンもパワーアップしていたので性能は目に見えて向上したのですが、排気タービンだけはまだ装備されていません。
とはいえ十分な性能を示したのですから、このまま量産すれば良さそうなものですが、陸軍がまた「あれもしたい、これもしたい、どれがいいか決められない病」を起こして、せっかくの高性能機も放置。
しまいには「他の戦闘機に空中戦で勝てないから」と、対爆撃機用迎撃機として発注したとは思えない難癖がつけられて、計画中止になってしまいました。
それだけならまだしも、改めて襲撃機(地上攻撃機)を川崎に発注、おまけにその数ヵ月後には「やっぱりその襲撃機で防空戦闘機作って」と言い出します。
おいおい、じゃあキ96を中止したのは何だったんだよ……とは誰もが思うところですが、そこでまた土井設計士が敏腕を発揮、またもや1年足らずで速攻で軍に提出された新型機キ102は、キ96のマイナーチェンジ版でした。
結局キ102は各型合計200機以上が生産されましたが、素直にキ96を量産していれば本土防空戦でもっと活躍できたのに……と惜しまれます。
物心付いた時には小遣いで「丸」や「世界の艦船」など軍事情報誌ばかり買い漁り、中学時代には夏休みの課題で「日本本土防空戦」をテーマに提出していた、永遠のミリオタ少年。撤退戦や敗戦の混乱が大好物で、戦史や兵器そのものも好きだが、その時代背景や「どうしてこうなった」という要因を考察するのが趣味。
2018/01/2
Gunfire
1
2018/03/31
Gunfire
2
2018/01/11
Gunfire
3
2018/05/29
Sassow
4
2018/12/4
Gunfire
5
2017/07/26
Sassow
6