- コラム
浮かぶ違法建築? 妙な形をした軍艦BEST5
2017/09/30
菅野 直人
すごいー! たーのしー!
2017/07/17
菅野 直人
1941年12月の真珠湾攻撃。ここでアメリカ海軍の戦艦隊を一度は壊滅させた日本海軍は、その後の戦いで消耗しきってしまい、燃料も無くなり大型艦艇のほとんどが祖国でひっそりと陸上からの電力で砲台として浮かんでいるだけとなりました。しかし1945年7月24日と28日、そんな日本海軍残存艦隊にアメリカの機動部隊が襲い掛かります。戦争が終わる前に、「リメンバー・パールハーバー」の誓いを果たすために。
By Japanese Imperial Navy – Eric Lacroix, Linton Wells II Japanese cruisers of the Pacific war. — Annapolis, MD: Naval Institute Press, 1997. — 882 с. — ISBN 1-86176-058-2, パブリック・ドメイン, Link
重巡洋艦「利根」
太平洋戦争開戦以来、多数の水上偵察機を搭載した索敵能力を活かし、機動部隊の「目」として活躍した利根は、1944年10月のレイテ戦に第一遊撃部隊の一艦として参加。サマール島沖海戦では米護衛空母部隊を追い掛け回し、他艦と共同で護衛空母ガンビア・ベイを撃沈します。
しかし反撃してきた米艦載機の爆弾が命中して損傷した利根は海戦後に祖国へ戻ることになり、11月17日に母港の舞鶴へ帰った利根は修理と対空兵装の強化を受けました。
燃料の無い祖国で利根にはもはや活躍の場が無く、練習艦となって呉練習戦隊に配属、1945年1月20日に呉軍港へ移動して、江田島の海軍兵学校練習艦になります。燃料の無い利根は3月19日の空襲で被弾したのを機に能美島沿岸に移動して偽装。
しかし7月24日・28日の空襲で立て続けに爆弾が命中、至近弾の水柱に囲まれながら最後まで主砲を振りかざし反撃しますが、大損害を受け浮いていられず、辛うじて転覆だけは避けながら着底、終戦を迎えました。
By Shizuo Fukui – Kure Maritime Museum, (edited by Kazushige Todaka), Japanese Naval Warship Photo Album: Battleships and Battle Cruisers, p. 117., パブリック・ドメイン, Link
戦艦「榛名」
1944年6月のマリアナ沖海戦で損傷し、全力発揮が不可能となりながらもレイテ戦に参加した榛名でしたが、大和などが内地に帰還した後も南方のブルネイに残り、再度の出撃に備えます。
しかし、ブルネイからリンガ泊地への移動中に座礁、18ノット以上の速力発揮が不可能となり本来の高速戦艦どころか、普通の戦艦としての戦闘や航行すらも困難となった榛名は祖国への帰還が決定し、1944年12月12日に呉軍港へ到着。
一応の修理は受けたものの、燃料が無いため以後の出撃は不可能となり、1945年4月に予備艦となって以降は主砲以外のほとんどの武器を陸揚げし、江田島小用沖に停泊したまま為すすべが無くなりました。
7月の大空襲では主砲も三式弾(対空散弾)を振りかざし、わずかな対空火器も応戦して2機のB-24を撃墜するなど最後の抵抗を行ったものの、命中弾、至近弾多数で艦尾から着底。しかし着底した場所の水深が浅いためまだ浮かんでいるように見えた榛名はなおも爆撃を受け続け、艦上は鉄くずの山のようになってしまいました。
それでもなお水面上にあった前部主砲や対空火器は使用可能でしたが、それ以上の空襲は無く、榛名の戦いは終わったのです。
By 不明 – Kure Maritime Museum, (edited by Kazushige Todaka), Japanese Naval Warship Photo Album: Battleships and Battle Cruisers, パブリック・ドメイン, Link
航空戦艦改装後の伊勢
1944年10月のエンガノ岬沖海戦に小沢機動部隊の1艦として参加、空母4隻が全滅する中でも猛烈な対空射撃の弾幕で僚艦日向ともども生き残り、10月29日に呉軍港に帰還。しかし休む間も無く日本海軍艦艇による最後の南方からの物資輸送作戦「北号作戦」に出撃し、1945年2月20日には奇跡的に無傷で呉に帰還しました。
以後、予備艦として浮き砲台になった伊勢は7月24日の空襲で艦橋に被弾して首脳部全滅、大浸水など激しい損害を受け、沈没を防ぐためドックへと移動作業中に28日の空襲に遭い、今度こそ命中弾多数で大破着底。
空襲後、発射の機会を逸していた第二主砲塔の三式弾を火災による誘爆防止のため処分することとなり、着底したまま発射しましたが、それが日本戦艦最後の主砲射撃になるとともに、発射後の主砲は最大仰角のまま正面に旋回したところで動力が尽きて停止。奇しくも、「日本戦艦最後の抵抗」を象徴したような姿で終戦を迎えました。
By 不明 – IJN, パブリック・ドメイン, Link
航空戦艦改装後 (1943年)
伊勢と同じくエンガノ岬沖海戦、北号作戦を無事に生き延びて呉に帰還した日向は、やはり浮き砲台として最後の戦いを迎えます。
7月24日の空襲ではひときわ猛烈な爆撃を受け、艦首から後部飛行甲板に至るまで穴だらけとなって艦橋も被弾、約1,000名の乗員のうち艦長以下乗員の8割以上が戦死傷するという地獄絵図となり、26日に艦内満水となって着底。
しかし、そのような状況にありながら28日の空襲でも残存対空火器を動員して最後の対空戦闘を行い、最後まで戦い続けて終戦を迎えました。
1944年8月に完成したものの搭載機も燃料も無く、何もすることが無いまま1945年4月には予備艦として浮き砲台になります。
呉港外の三つ子島を挟み、同型艦の葛城ともども係留されて7月の空襲を迎えましたが、葛城が爆弾3発命中にとどまり被害が少なかったのに対し、反対側に係留された天城は集中攻撃を受けて28日の攻撃で転覆、完全に沈没はしなかったものの着底全損と判定されました。そのまま終戦を迎えた天城でしたが、その存在が注目されたのは戦後。
生き残った葛城が南方の戦地から兵員を復員させる「特別輸送艦」(この任についたものとしては最大の艦)に指定された時、終戦に伴い葛城の運用マニュアルは全て処分されており、再び動かすのに苦慮していました。しかしそこで転覆したままの天城のことを思い出した者がおり、破壊された艦内で処分されずにいたマニュアルの回収に成功、葛城を動かすことができたのです。
戦後の日本海軍最後の大作戦「復員輸送」において、葛城が最大の特別輸送艦として多くの在外日本兵を一度に祖国に連れ帰る活躍をするため、天城は最後の奉公をしたと言えるでしょう。
しかし、天城の運命はまだ終わりません。1946年12月にようやく解体作業に取り掛かった天城は転覆した船体の引き起こしに苦労しながら翌年12月解体完了。それに先立つ8月には解体中の艦体の一部を使用して函館に運び、青函連絡船の修理用浮き桟橋として1948年8月まで使われた後に解体、ようやく天城は完全にその姿を消しました。
物心付いた時には小遣いで「丸」や「世界の艦船」など軍事情報誌ばかり買い漁り、中学時代には夏休みの課題で「日本本土防空戦」をテーマに提出していた、永遠のミリオタ少年。撤退戦や敗戦の混乱が大好物で、戦史や兵器そのものも好きだが、その時代背景や「どうしてこうなった」という要因を考察するのが趣味。
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