- コラム
帝国海軍の残照(2)-太平洋戦争後生き残った艦艇たち-国内編その2
2017/03/18
菅野 直人
すごいー! たーのしー!
2017/02/11
菅野 直人
1945年8月15日に太平洋戦争が終結、生き残った日本海軍艦艇は戦地から将兵を引き上げさせる特別輸送艦としての任務について後、多くは戦勝国への賠償艦として引き渡され、あるいは解体、自沈などの手段で処分されました。それでも戦後日本で生き続けた例はあり、今回はそのいくつかを紹介したいと思います。
By Japan Maritime Self-Defense Force – http://www.mod.go.jp/msdf/, Attribution, Link
駆逐艦「梨」は、戦時急増型の丁型駆逐艦(松型駆逐艦)をさらに簡易化した改丁型駆逐艦(橘型駆逐艦)の10番艦として1945年3月15日に就役、第十一水雷戦隊に配属されて訓練に従事。その後は本土決戦時に最後の反撃を行う水上戦部隊、第三十一戦隊に配属されて、訓練や対空戦闘に従事しますが、7月28日呉軍港空襲で多数のロケット弾が命中。浸水の増大で沈没しました。
それから9年後の1954年9月に海底から引き上げられた結果、状態良好として復旧工事が行われ、創設されたばかりの海上自衛隊で乙型警備艦(沿岸用護衛艦)DE-261として1956年5月に再就役しています。
その際、ひらがな艦名が採用されている海上自衛隊で護衛艦「なし」では名前が「無し」と思われそうなことから、「わかば」と改名。
一応警備艦(護衛艦)籍にはあったものの、長年海水に浸かっていた戦時急増駆逐艦ということもあって、通常の護衛艦のように使役するのには向いておらず、実際には各種装備の実験艦として使われました。
部品の欠乏や状態の悪化により結局短命で、再就役から15年後の1971年には除籍、1975年に解体。
By 海上自衛隊 – 掃海OB等の集い 世話人会 (2012-09-30). 航路啓開史 (in 日本語) (PDF). Retrieved on 2013-03-13., Attribution, Link
対空・対潜能力に優れた大型の甲型海防艦として量産された日振型、鵜来型海防艦は1944年から1945年にかけて29隻が建造され、20隻が終戦時も残存していました。
武装を解除された上で復員用の特別輸送艦や進駐軍の連絡船、海軍省の後処理組織である第二復員省所属の掃海艦として機雷除去任務に従事するなどして、戦後も多くが活動を続けています。その後は賠償艦として戦勝国に配分されたものを除き運輸省へ移管して定点気象観測船となった5隻が1954年に海上保安庁に移管されて、巡視船となりました。
該当するのは以下の5隻です。
おじか(旧「生名」、以下同様)、あつみ(竹生)、さつま(鵜来)、つがる(新南)、こじま(志賀)。
老朽化と後継巡視船の建造で1962年から1966年にかけて相次ぎ解役されますが、「こじま」のみ千葉市の海洋公民館として1993年まで使われ、1998年に解体されました。
沿岸防御や雑務用の小型艇として203隻が建造された駆潜特務艇の残存艇は、木造で磁気感応式機雷に強いことから戦後も機雷掃海任務に多くが従事し、海上保安庁掃海船時代にはGHQの命令で朝鮮戦争にも従事しました。
そのうち35隻が海上保安庁の巡視船となり、うち25隻はさらに海上自衛隊に転籍しましたが、最後の巡視船「ほおじろ」(旧第71号駆潜特務艇)が除籍されたのは1963年12月25日と、意外に長く使われています。
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写真はちよづる型「ひよどり」
前述の駆潜特務艇と、やや大型の哨戒特務艇のうち、前者25隻が「ちよづる」型、後者10隻が海上保安庁と、その後転属した海上自衛隊で掃海艇として使用。さらに雑役船へと種別変更されたものも含め使われ続け、最後まで在籍していた掃海艇「はつたか」が除籍されたのは1965年3月でした。
最終的に海上保安大学校の初代練習船となる「栗橋」が就役したのは何と19世紀末の1897年。
スウェーデン ネプチューン社の救難船ヘラクレスをして建造され、1905年に日本海軍が購入して救難船「栗橋丸」となります。横須賀港務部所属の救難船兼曳船として太平洋戦争も生き延び、第二復員省所属の特別輸送艦として復員輸送に従事後、復員庁第復員局の保管船を経て運輸省海上保安庁に曳船として移管。
1949年には何と巡視船として船齢52年の老嬢が運用続行されることとなり、巡視船「栗橋」として就役したのでした(ただしGHQの許可を得てのことで、正式な巡視船籍への変有は1952年4月)。
1951年8月からは大型なことから海上保安大学校の練習船となり、1954年に練習船「こじま」(前述のおじか型巡視船)へと役目を譲って、ようやく解役されたのでした。
1955年に「栗橋」は解体されましたが、おそらく海上保安庁でも群を抜く旧式船だったのではないでしょうか。
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元は1938年に就役した商船「地領丸」で、1940年2月に海軍の特務艦「宗谷」となりました。
測量任務も可能な雑用運送艦として使われて戦争を生き延びて後、海上保安庁の灯台補給船を経て1955年12月には大型巡視船へと船種変更。
南極観測船として1962年まで使われた後は巡視船として使われ、1978年解役。
その後はお台場の「船の科学館」で公開されており、旧海軍で軍艦旗を上げていた艦艇の中で唯一「海に浮いている船」となっています。
(他には固定されている戦艦「三笠」と、徴用されて病院船として使われたものの、軍艦旗を上げたことは無い「氷川丸」のみ)
沿岸近くで海上に不時着水した飛行機の収容や乗員救助に当たったのが、旧海軍の飛行機救難船で、戦後も残存船が海上保安庁や海上自衛隊で長く使われました。
掃海艇「ゆうちどり」など迎賓艇に改装されて1978年まで使われましたが、他にも民間に放出されたものが長く使われています。
その中でも抜きん出ていたのが、九州商船の旅客船「水光丸」に改装されて定期航路で使われて後、鳥羽で海上レストラン「シーホース」として使われていた、飛行機救難船(雑役船)930号です。
「シーホース」がいつ頃閉店したのかは定かではありませんが、船自体は2009年9月時点で三重県の浜島港に赤錆を浮かべた状態で放置されている姿が確認されていました。
現在は解体されて現存しないようですが、何とも惜しいものです。
物心付いた時には小遣いで「丸」や「世界の艦船」など軍事情報誌ばかり買い漁り、中学時代には夏休みの課題で「日本本土防空戦」をテーマに提出していた、永遠のミリオタ少年。
撤退戦や敗戦の混乱が大好物で、戦史や兵器そのものも好きだが、その時代背景や「どうしてこうなった」という要因を考察するのが趣味。
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