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2019/01/21

菅野 直人

平成軍事メモリアル(2)「自衛隊が認められた日」~バブル崩壊や大災害の多発~

2019年、いよいよ平成時代が終わりを迎えます。どのような終わり方をするのか、新しい時代はどのような始まり方をするのかはまだ全てが決まったわけではないようですが、30年を超える平成の世でも日本を取り巻く世界は大きく変わっていきました。シリーズ『平成軍事メモリアル』として、平成時代に起きた変化を軍事的側面から紹介しましょう。第2回は日本の国防を担う自衛隊を取り巻く環境が大きく変わった30年について。

前回記事:平成軍事メモリアル(1)「冷戦終結とソ連崩壊」~アフガニスタン撤退からソ連最後の日まで~







自衛隊が褒められるようになった平成時代は『悲しい記憶』や『外交の失敗』の時代

決して誰にも褒められることはなく、しかし失敗は誰からも責められる組織。
昭和25年(1950年)、前々身にあたる警察予備隊が誕生して以降、昭和64年(~1989年1月7日)に至るまでの『昭和の自衛隊』を一言で表せば、そんな立場でした。

しょせんは日本を崩壊に導き、多くの国民を死に至らしめた組織の末裔であり、新国家を築くに当たって誓ったはずの平和に仇なす組織であり、戦争になれば喜んで殺人を行い、街を焼く血も涙もない人間の集まりが自衛隊であると、真顔で言う人間も珍しくなかったのです。

平成が終わろうとしている平成31年(2019年)1月現在でさえ、そう信じている(あるいは信じている事にしないと自分の立場が成り立たない)人間はまだ残っており、国内の災害派遣でさえ被災者そっちのけで自衛隊の反対運動を行う始末。
平成時代の31年間はそうした自衛隊への古い認識が大きく変わった時代でもありましたが、それは必ずしも喜ばしいことではありません。

なぜならば、それは数多くの大災害で災害派遣された自衛隊が頼りになる存在だと認識された一方、多くの犠牲者を伴う『悲しい記憶』と引き換えでした。
自衛隊の海外派遣が当たり前になったのも、隣国の脅威に対する切り札として期待されるようになったのも、いわば日本が外交的敗北を喫したツケを自衛隊が払っているに過ぎないからです。

自衛隊が『決して誰にも褒められない組織』であれば、それだけ日本が平和で平穏な生活ができる国だったということなのですが、平成時代は残念ながら、そんな状況を許さない悲しい時代だったと言う事もできます。

自衛隊、創設以来の海外派遣へ~ペルシャ湾やカンボジアPKO~

1989年1月8日に『平成元年』が始まった頃、世界はアメリカを中心とする西側陣営と、ソ連(ソヴィエト社会主義共和国連邦・現在は分裂し後継国がロシア連邦)を中心とする東側陣営が静かに対立する冷戦末期でした。
ソ連は1991年12月25日に消滅するまでの崩壊過程まっしぐらでしたし、東欧諸国では自由主義への革命が進んで、「何もかもうまくいかなかった場合は第3次世界大戦もありえるが、うまくいけば人類の存亡を賭けた大戦争だけはなくなる」と期待されていた時代です。

しかしその一方、極度の貧乏であるがゆえにソ連の援助とコントロールを受け入れていた世界中の国が、ソ連の弱体化で不安定化し、世界各地で地域の不安定化と混乱を始め、冷戦の代理戦争で東西両陣営からバラ巻かれた兵器で地域紛争が自然発生。
平成時代の始まりは終わりのない『冷戦の後始末』が世界で始まった頃でしたが、日本も平和憲法を盾に自国だけで引きこもってばかりいられなくなりました。

何しろその頃は「世界を買い尽くす」とまで言われたバブル時代真っ盛りの金余りニッポン、世界第2位の経済大国にはなったものの、金ばかり出して血を流さない国は国際社会から認められないと焦っていました。
なぜなら、それだけ繁栄しても世界5大国、すなわち『国連常任理事国』の椅子が遠かったからで、今思えばそんな椅子を何で欲しがったのかと思ってしまいますが、ともかく国際貢献のため創設以来初めて自衛隊を海外派遣させる事になります。
(※1950年の朝鮮戦争で進駐軍の命令により出撃した特別掃海隊は、海上保安庁所属)

JMSDF AOE423 DD111.jpg
GFDL, Link

最初は湾岸戦争後の平成3年(1991年)、湾岸戦争へ派兵しなかったのを詫びるように海上自衛隊の掃海部隊をペルシャ湾へ派遣し、機雷掃海という戦後処理。
次に平成4年(1992年)、カンボジア内戦(1970-1991年)が終わったばかりの東南アジア、カンボジアへ道路補修や地雷処理などインフラ整備、および停戦監視業務を行う陸上自衛隊と、それを支援する海上・航空自衛隊も派遣されました。

以後、アフリカのルワンダや中東のイラクなど世界各地へ同種の派遣が行われ、基本的に不安定な地域で、最初は自衛のための武力行使すら躊躇されてロクな武器も持たされなかったのが、段階的に解除されて装甲車や機関銃で自衛が許されるようになります。
さらにソマリア沖の海賊対処任務へ海上自衛隊の護衛艦や補給艦が派遣されるのも恒常化し、ジブチへ自衛隊初の海外基地が設置されたほか、国際共同任務部隊の司令官に海上自衛隊の幹部が着任するまでに至りました。

かつてこの種の任務は責任が深い国へ任せる、あるいは外交的手腕でもって派遣に至る事態そのものを回避すべきところでしたが、もはや外交の領域を超えた事態に対し、あるいは外交手段のひとつとして自衛隊が『有力活用』されている形です。

国家の根幹を揺るがす大災害で活躍し続けてきた自衛隊

さらに平成時代は、もとより大災害が多い日本の歴史でも『国家を揺るがす一大事レベル』の大災害が多発した悲しい時代でもありました。

平成初期だと、代表的な平成7年1月発生の『阪神・淡路大震災』では、被災した自治体や警察組織などと自衛隊の連携体制がうまく機能せず(というより、自衛隊は明確に嫌われていた)、初動が遅れます。
それに対してマスコミから無責任な『自衛隊叩き』が続出し、まさにこの時期まで最初に書いたような『嫌われ者の自衛隊』という実態がありましたが、さすがに大規模災害で自衛隊の活動により救われた人々は、そのような無責任な自衛隊叩きを許しませんでした

その後しばらくは災害のたびに自衛隊へ感謝する意見、それでも自衛隊は不要だとする意見が拮抗しており、中には『自衛隊は違憲な存在であるからにして、自衛隊と別な災害派遣専門組織を作るべき』という、実態無視の荒唐無稽なアイデアまで出ています。

CH-47 at Ōshima (Kesennuma), -1 Apr. 2011 a.jpg
By Mass Communication Specialist 2nd Class Eva-Marie Ramsaran, U.S. Navy – cropped from
110401-N-8607R-217.jpg〔Uploaded to Flickr by Commander, U.S. 7th Fleet〕, パブリック・ドメイン, Link

しかし反対意見を問答無用で黙らせたのは、人間ではなく自然の力でした。
平成23年(2011年)3月、北海道から関東までの東日本太平洋側一帯をM9.0の巨大地震と大津波が襲い、2万人近い死者・行方不明者を出した『東日本大震災』です。

まだ激しい揺れが収まらないうちに陸上自衛隊・霞の目飛行場(宮城県仙台市)からは偵察ヘリが飛び立ち、その後10分と経たずに各駐屯地からは災害派遣の第1陣が営門を出て、滑走路が使用可能な航空自衛隊の基地からは偵察機が飛び立ち、海上自衛隊は『稼働全艦出動、三陸沖へ向かえ』と前代未聞の命令が飛び交いました。

昭和時代から平成初期にかけてであれば、事の是非に関係なく『自衛隊の専横、横暴』『天災を利用して軍事力役立てる訓練をしており、極めて不謹慎』などと叩かれて当然でしたが、平成23年の自衛隊にはもう迷いはなく、予備自衛官まで招集する『総力戦』。
結果、何もかもを救うわけにはいかなかったものの、絶望的状況下で数ヶ月奮闘した自衛隊が撤収する時『自衛隊ありがとう』と感謝の文字が被災地で踊っていたのが全てを表していたと思います。

この大災害では『トモダチ作戦』で原子力空母すら動員した米軍はじめ世界各国の軍隊も災害派遣へ協力しましたが、住民を見つけてはところかまわず着陸して食料を届ける米軍のヘリを、被災民は歓喜の声とともに見送る光景までありました。

その後の熊本地震(平成28年・2016年)や北海道胆振東部地震(平成30年・2018年)など、自衛隊だけでなく、『災害時に頼りになるのは軍事力』という国民の認識が確定していき、むしろ人気者になっていったのが平成時代です。
しかしそれは、多くの犠牲者を出す悲しい出来事にさした一筋の光明であったのも確かで、悲しみの記憶とともに自衛隊の存在感が増していった不幸な時代だったことは、忘れてはいけません。

バブル崩壊や就職難で以前よりは人気職へ

また、平成時代に起きた自衛隊の変化といえば、隊員や幹部の募集状況が昭和時代に比べれば改善された事も大きいかもしれません。

昭和時代から平成初期の自衛隊といえば、防衛大学や一般大学出身の幹部はともかく、一般隊員ともなると「誰でもいいからとにかく入って! 入ればあとは何とかするから!」という時代。
入隊時の筆記試験では答えのマル印や応募者の名前まで鉛筆で薄く書いてあげて、それでもなお落ちる奴がいる、という本当か嘘かわからない逸話までありました。

もっともバブル時代は自衛隊のみならず『公務員そのものが不人気職だった』という信じがたい時代でしたが、中でも自衛隊の人気は最悪だった時期です。
しかしまず平成3年(1991年)にバブルが弾け、数年後にもはや景気回復しない事がわかって人員整理に新卒採用激減の就職氷河期時代、しかも第2次ベビーブーマーが続々と社会に出る時期へ重なる『むちゃくちゃ人が余ってる時代』が到来。

やっと就職が決まったかと思えば入社日を待たず会社が潰れるような世の中でしたから、一気に超絶難関となった一般公務員ほどではないものの、自衛隊も『最低でも潰れない職場』として、定数に対する充足率が大幅に上がりました。
さらに災害派遣で人気が高まると、かつてとは異なりちゃんと筆記試験を通る人、何か怪しい期待をしているミリタリーマニアを排除しながら選別するようにまでなったのです。

相変わらず定数を常時充足させる人件費など予算で認められないので定数割れはしているものの、自衛隊を構成する人員はバブル崩壊を境に大幅な質的向上が図られた平成時代でありました。

平成軍事メモリアルはこちらからどうぞ







菅野 直人

物心付いた時には小遣いで「丸」や「世界の艦船」など軍事情報誌ばかり買い漁り、中学時代には夏休みの課題で「日本本土防空戦」をテーマに提出していた、永遠のミリオタ少年。撤退戦や敗戦の混乱が大好物で、戦史や兵器そのものも好きだが、その時代背景や「どうしてこうなった」という要因を考察するのが趣味。

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