- コラム
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菅野 直人
2018年11月、「100年も前のイギリス空軍に日本人パイロットがいて、第1次世界大戦で飛んでいた」というニュースが日本中を驚かせました。イギリス空軍で活躍したその日本人の名はハリー・フサオ・オハラ。しかし実は第1次世界大戦でヨーロッパの空を舞った日本人パイロットは彼だけではありません。日本より自由にもっと飛びたい!という男たちが、フランス空軍でも戦っていました。
現在のファーンボロ航空ショー以前、1948年まではヘンドン航空ショーが行われており、1968年に飛行場が閉鎖されてからはRAF(王立イギリス空軍)博物館が置かれている、ロンドン近郊のヘンドン。
ここで2018年、1918年に陸海軍航空隊が統合されて誕生したイギリス空軍の創設100周年を記念する展覧会が開催されました。
展示物の中には創設期、つまり第1次世界大戦末期に活躍したパイロット達の写真が飾られましたが、その中に1人の東洋人を見つけた共同通信の記者が、取材を経てその波乱万丈の生涯を遺族へのインタビューと共に日本へ配信します。
その東洋人の名はハリー・フサオ・オハラ、1891年に横浜で生まれた公務員(大蔵省の官僚だったらしい)の息子。
共産主義に感化されたとかでなぜか日本を飛び出しインドで第1次世界大戦の勃発(1914年)を迎え、現地のインド植民地軍に入隊した後でイギリス本土に渡りイギリス陸軍正規部隊の第8師団第24旅団に属していたミドルセックス連隊で塹壕戦を戦います。
その後陸軍航空隊へ転身、整備士を経てパイロットになり、幾度か負傷しながらも戦い続け、創設されたばかりのイギリス空軍で活躍したという……お話。
しかしそこは歴史と伝統の国イギリス、イギリス空軍初期の英雄として誰かが以前に紹介していたのでは、と海外のブログなどを漁っていると、2013年4月23日にオハラを紹介したブログを発見しました。
それによると1915年12月にミドルセックス連隊へ加わった彼はクリスマスイブにフランスの西部戦線へ到着、1916年8月の戦いで負傷して1917年1月に軍から勲章を授与されたそうです。
1917年3月に整備士として陸軍航空隊に移籍、同年7月には飛行資格を得たとありますから、おそらく整備士というのもパイロットになるための短い修行だったのかもしれません。
同年9月に現地で結婚した後、1918年には西部戦線へ戦闘機パイロットとして復帰、そこで同年4月のイギリス空軍創設を迎えて、『RAF創設期のパイロットの1人』となります。
しかし同年6月の空戦でアゴに銃弾を受けて負傷したオハラは前線を去り、顔面再建手術を受けた病院で終戦を知りました。
退院後にRAFを除隊、ロンドン近くで妻ミュリエルと暮らし、週19ドルの退役軍人年金を得ながら1920年代にはロンドンの東洋研究学院(現在のSOAS、東洋アフリカ研究学院)で日本語を教えていたほかは、何をしていたのか詳しくわかっていません。
1941年にイギリスが日本と戦争になると、アメリカほどでは無いとはいえ敵性外国人として収容、交換船で日本へ強制帰国……となりそうですが、オハラが収容された記録は無いそうです。
この第1次世界大戦の英雄は戦時中もつつがなくイギリスで暮らし、1951年にハムステッドで亡くなりました。享年60歳と思われます。
100年も前に、遠くヨーロッパで戦った日本人パイロットがいたのか! と感心するニュースでしたが、考えてみれば飛行機も車も欧米が先で立ち遅れていた当時の日本では、最新技術に触れたくて渡欧した日本人が大勢いたはずです。
ならばイギリスに限らず他の国で第1世界大戦を戦った日本人がいてもおかしくない……と思って見渡すと、ビンゴ! やっぱりいました! それもフランス陸軍航空隊に2人も!
1人は1892年生まれの小林 祝之助(おばやし しゅくのすけ)という人物で、憧れていた飛行家の事故死にショックを受けて1915年6月に第1次世界大戦真っ只中のフランスへ渡り、まずはフランス語を1年勉強していたと言います。
それくらい日本で勉強していなかったのか……と思いますが、衝動的に渡欧したようなので、今で言うなら思い立っては吉日とばかりに言葉もわからないままヨーロッパに行って何となく成り行きでレーサーになったような人物といった感じでしょうか。
1916年6月にはフランス陸軍航空学校へ入学(フランスで空軍が独立するのは1933年)、翌1917年3月に卒業して偵察機のパイロットになりますが、オハラが入隊したイギリス陸軍ともども、大戦争をしていると国籍などあまり関係無いのかもしれません。
偵察機では飽き足らずに1918年2月に戦闘機隊へ志願、スパッド戦闘機のパイロットになりますが、2週間後に撃墜され、あっけなく戦死してしまいました。
どうも衝動型で太く短く生きるような、長生きできないタイプの人間だったようです。
By 不明 – 華族画報社「華族画報」より。, パブリック・ドメイン, Link
フランス陸軍航空隊には、小林 祝之助の他にもう1人、男爵・滋野 清武(しげの きよたけ)という人物がいました。
通称『バロン滋野』と呼ばれていた彼は1882年生まれですから小林より10歳年上で、第1次世界大戦前の1910年に音楽を学ぶため渡仏しますが音楽学校より飛行学校にハマってしまい、1912年1月には飛行免許を取得します。
その年に自家用機を買って帰国したあたりはいかにも華族な男爵サマといったところですが、日本陸軍から請われて飛行学校の教官になったところで、日本国内初の飛行を成功させた陸軍航空のパイオニア、徳川 好敏 陸軍大尉に睨まれたからたまりません。
徳川大尉は徳川将軍家の傍流、伯爵・清水徳川家で生まれましたが経済的理由で爵位を返上していまい当時は平民(後に男爵として華族へ復帰)。
そこへ男爵のバロン滋野がやってきて、操縦も教育も自分よりうまかったものですから、何かと嫌がらせをして滋野を追い出してしまったようです。
これで日本に嫌気が差した滋野は1914年に再渡仏、第1次世界大戦が始まるとフランス陸軍航空隊に志願して陸軍飛行大尉として任官し、エース級パイロットばかり集めた精鋭部隊として知られるコウノトリ飛行大隊へ配属されます。
スパッドVII戦闘機を駆る滋野の任務は主に対地攻撃だったようですが、それでも6機の撃墜スコアが認められて、なんと『日本人初のエースパイロット』はフランス陸軍航空隊から生まれることになりました。
これで勲章をもらって英雄になったバロン滋野は、現地で戦争未亡人のジャーヌの1917年10月に結婚するや病気療養を理由にモンテカルロに移住……というあたりがまた、前述の小林 祝之助とは異なり『華族の華麗なる経歴』という感じ。
終戦時は既にコウノトリ飛行大隊ではなく後方の防空部隊でノンビリしていたようで、1920年に妻を伴って帰国すると1924年に42歳で病没してしまったのが惜しまれます。
なお、元々勉強するはずだった音楽は飛行家に転身したので三日坊主で終わりましたが、御子息たちがジャズピアニストやミュージシャンとして結構有名な活躍をした……というのは、また別なお話です。
物心付いた時には小遣いで「丸」や「世界の艦船」など軍事情報誌ばかり買い漁り、中学時代には夏休みの課題で「日本本土防空戦」をテーマに提出していた、永遠のミリオタ少年。撤退戦や敗戦の混乱が大好物で、戦史や兵器そのものも好きだが、その時代背景や「どうしてこうなった」という要因を考察するのが趣味。
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