- コラム
陸の珍兵器「世界でもっとも見た目がアレな自走砲、ベスパ 150 TAP」
2019/01/15
菅野 直人
すごいー! たーのしー!
2018/12/19
菅野 直人
機械化がやたらと立ち遅れていたような印象のある日本軍ですが、単にトラックの大量生産や、装甲・火力のバランスが取れた装甲戦闘車両を持っていなかっただけであり、機動力を重視した車両の配備はそれなりに進んでいました。特に陸軍が主戦場と定めていた満州やシベリアでの行動に特化したユニークな車両は、決して日本軍が機械化に熱心では無かったわけではない事を示しています。今回はそんな車両の中から『湿地車』と、その末裔の話を。
1941年に太平洋戦争という形で第2次世界大戦へ参戦した日本は、アメリカやイギリス、オランダへ宣戦布告して、それらの国や植民地の軍隊と戦うべく、遠く南方へ出撃していきました。
日本陸軍も輸送船へ乗せられマレーやビルマ、フィリピン、ニューギニア、その他無数の島で上陸戦や防衛戦を戦うこととなりますが、そもそも陸軍が想定していた敵国はソ連であり、南方とは逆の北方で戦うための戦力整備がメイン。
かつては日露戦争でロシアと、さらに第1次世界大戦末期からのシベリア出兵ではロシア革命後の赤軍と戦ってきましたから、いずれ再びロシア、後にはソ連と雌雄を決する時が来る、少なくとも仮想敵国と定めるというのが日本陸軍の方針でした。
加えて1931年に満州事変、1932年には満州国を中国東北部に建国してしまい、日本人開拓民の移民や満州鉄道などの利権をガッチリ握ると、ソ連の脅威からそれらを守るという使命も加わります。
しかし満州東部やシベリアには湿地帯が多く、歩兵や騎兵を進軍させるにしても泥濘や沼地に足を取られて行軍能力は極端に低下し、電光石火の機動戦とはいきません。
それどころか戦場を制する火力戦のための大砲や弾薬を運ぶのにも難儀するのでは防衛するにも攻勢をとるのにも、戦力配置の選択肢が非常に限られてしまうのが問題でした。
日本陸軍が満州東部などの湿地対策へ本腰を入れたのは1933年ですから、満州国が建国され、戦車も国産の八九式中戦車や九二式重装甲車の開発、配備が進んでいた頃です。
想定戦場が湿地帯ばかりで苦労しそうな事がわかり、国産装軌車両の開発ノウハウも手に入った頃ですから、湿地帯での戦闘用装軌車両を開発・配備するちょうどいいタイミングでした。
最初に作られたのは三菱重工が開発した秘匿名称『SB器』で、鋼板製車体に接地圧を下げる幅広履帯を履いたところなど、後にソ連の主力戦車となったT-34のようでなかなか先進的です。
走行試験に供されたSB器の試作車は水上で浮くようになっていて、車体後部のプロペラで推進もできる水陸両用車であり、陸上は元より水上、湿地の走行能力は十分とされました。
ただ、蛇腹ゴム式の履帯ではいくら幅広でも泥濘を走行して突破するには不十分だったようで、自重も10tと八九式中戦車並に重かったので接地圧が高すぎズブズブと沈んでしまう有様で、湿地帯ではすぐ動けなくなってしまいます。
By Imperial Japanese Navy – http://www.strange-mecha.com/vehicle/track/scv.htm, パブリック・ドメイン, Link
そこで設計を改めて自重を5tに減らすなど大幅に小型軽量化、履帯もゴム製浮き袋を繋げたような形になり、今度は泥濘でも走行性能は十分であり、雪上走行すら容易となかなか高性能になりました。
軽量化の結果、車体前方の操縦席は小さな箱型となって広報の貨物室は天井の無いオープントップと防御性能はほとんど見込めませんでしたが、元々が泥濘を敵戦線後方へ向け隠密突破するような兵器でしたから、さほど問題ではありません。
車体への貨物搭載能力はさほどでもありませんでしたが、そこはトラクター(牽引車)だと割り切って大砲など武器弾薬、兵員を乗せたソリを引っ張る事として、FB器そのものの搭載力2tに加え、泥濘でも550kg、雪上なら1,800kgの牽引能力もありました。
第2次世界大戦の終戦まで146両が生産され、主に満州東部へ配備されていますが、1945年8月、終戦間際のソ連軍満州侵攻に際してどれほどの戦力になったかは不明です。
実際には満州の日本軍がとても対応できないような大軍で攻めてきたソ連軍に対し、湿地車でいくらかでも戦局を有利にするような余地は全く無く、使用できる局面がほとんど無かったのではと思われます。
結果的にあまり役に立たなかった湿地車ですが、戦後陸上自衛隊が創設されると、旧軍の『湿地車』と似たような車両『泥濘地作業車』を、再び三菱重工に試作させます。
基本的に本土防衛しかしない陸上自衛隊で、対ソ戦用に満州で使うはずだった湿地車が必要なのか? という疑問を感じますが、湿地帯は対ソ戦で本土防衛の主戦場となる北海道でも多く、他の地域でも水田地帯や沼地はいくらでもありましたから、役に経つと思われたようです。
実際、泥濘地作業車の構想が始まった1955年の日本はロクに道路舗装もされていないどころか地方ではマトモな道が無い事すら多い貧乏国でしたから、湿地車は本土防衛でも役に立つと考えられました。
パワーアップされたディーゼルエンジンを用いて操縦席も少々大きくなるなど以外は湿地車と同じような装軌車両となりましたが、ソリで追加の荷物を牽引する方式は採用されず、車載する貨物だけに制限されたので実用性に欠けてしまい、結局開発中止。
その後の道路事情好転などで必要性も薄れ、それ以上の新規開発がなされる事もありませんでしたが、もし開発続行して施設科や特科の装備として制式採用されていれば、災害派遣も含めてかなり使いでのある装軌車両だっただろうと思うと、少々惜しまれます。
物心付いた時には小遣いで「丸」や「世界の艦船」など軍事情報誌ばかり買い漁り、中学時代には夏休みの課題で「日本本土防空戦」をテーマに提出していた、永遠のミリオタ少年。撤退戦や敗戦の混乱が大好物で、戦史や兵器そのものも好きだが、その時代背景や「どうしてこうなった」という要因を考察するのが趣味。
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