- コラム
ミリタリー偉人伝「コマンドー・ケリー」ケリー伍長の多忙な1日
2018/05/28
菅野 直人
すごいー! たーのしー!
2018/10/8
菅野 直人
2018年の今なお世界一の経済的・軍事的最強の国家であるアメリカ合衆国。しかしアメリカ大統領そのものが直接的に『軍事的意義』のある存在だった例は意外と少ないかもしれません。日本にとっては、日露戦争でかろうじて『負けずに済んだ』直接の要因となった当時のアメリカ大統領、セオドア・ルーズベルトこそ非常に軍事的意義の深かった人物だと言えます。
By 匿名 – Musee de l’Armee, Paris, パブリック・ドメイン, Link
一般的に、日露戦争(1904-1905年)とは日本において『大苦戦しながらロシアにどうにか勝った戦争』として知られています。
陸軍による二百三高地の戦い、旅順要塞の制圧や奉天会戦での勝利、海軍による『歴史上唯一、完全勝利を収めた艦隊決戦』として知られる日本海海戦での大勝利がそのイメージを固めていました。
しかも、結局朝鮮半島や中国の遼東半島からロシアの影響力を排除し、満州(中国東北部)での利権にも足掛かりを得て、樺太(現在のサハリン)に至っては侵攻して占領すらしたのです。
これで勝っていると言わなければ嘘だろう、我々はあの時ロシアを屈服させたのだ、と言いたい気持ちはわかりますし、当時の日本では講和条約などとんでも無い、もっと戦争を続けて代償を支払わせろという声が高かったほどでした。
しかし、当時のメディアとその影響を受けて右傾化した民衆の掛け声とは裏腹に、実際に戦う日本陸海軍や政府関係者の背中は冷や汗でぐっしょりと濡れています。
確かに決定的な勝利をいくつか収めてきましたし、特に海軍はもはやロシア海軍に積極的行動を起こさせることは無いであろう大戦果を上げていました。
一方、そのために払った犠牲は日本の国力に余って国庫は底を尽き、陸軍など足腰の弱った中年部隊を補充に送ってどうにか戦線を維持している始末で、ロシアが『本腰を上げて』大陸で反攻など仕掛けてきようものなら、もはやなすすべはありません。
実際には経済的にも軍事的にも追い詰められていた日本にとって頼みの綱はただひとつ、親日的中立を維持していたアメリカ大統領による和平仲介のみでした。
By Pach Brothers – This image is available from the United States Library of Congress‘s Prints and Photographs division under the digital ID cph.3a53299.
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日露戦争で日本が勝利を重ねた末に困り果ててしまった1905年6月、アメリカ合衆国第26代大統領の職にあったのはセオドア・ルーズベルトでした。
1901年9月、暗殺されたマッキンリー大統領の副大統領だった彼はわずか42歳10か月で若きアメリカ大統領ととして就任、愛称は『テディ』でしたがテティベアのそっくりさんだったわけではなく、実はテディベア(1902年に命名)の方がセオドア・ルーズベルト大統領由来です。
実はこの大統領、当時は相当な親日家で、その理由として新渡戸稲造の著作『BUSHIDO(武士道)』を読んで感銘を受けたとも、『忠臣蔵』で赤穂四十七士のエピソードを知って感激したとも言われますが、正確なところは定かではありません。
しかしアメリカ人で初めて柔道の茶帯(省略される事も多いのですが、白帯と黒帯の中間。柔道2級から1級)を取得するなど日本文化に対しても実体験を通した理解があるという、現在で言えば(皮肉にも)ロシアのプーチン大統領のような人でしょうか。
そのため日露戦争が始まった後も、中立国ではありながら一貫して『日本寄り中立』という立場で、日本から和平仲介を求められた時も2つ返事で了承した上で、日本側交渉団がアメリカのポーツマスに到着すると、ロシア側へプレッシャーをかけるアドバイスを行いました。
その一方でロシアへもアドバイスを行っているので、『日露を天秤にかけた狡猾な大統領で親日でも何でも無かった』とバッサリ切り捨てる声もありますが、それも交渉術というもので、詳細は後述。
さて、1905年6月にセオドア・ルーズベルト大統領からの提案という形で日露両国が和平交渉のテーブルにつくのを了承した頃、『これ以上戦争を続けたら大変なことになる』と青ざめていた日本側とは異なり、ロシア皇帝ニコライ二世は涼しい顔をしていました。
何しろ太平洋艦隊、バルチック艦隊いずれも撃滅されてしまったとはいえ、陸軍は派遣した部隊のいくつかが壊滅し、残りは後退して土地を明け渡したとはいえ、あくまでそれは『戦略的後退』です。
昔からロシアは攻撃してくる敵に対して戦略的後退を行い、敵の補給線が伸び切ったところで『今なら簡単に勝てる』というタイミングで大攻勢をかけ、最後はしっかり勝ってしまうのが得意な国。
後に第2次世界大戦でもその手でナチス・ドイツを滅ぼしますが、日露戦争でも何か嫌な予感がした上に国力消耗が前線にまで悪影響を及んでいた日本陸軍が前進を手控えたから良かったものの、まかり間違って限定的攻勢でも仕掛けようものならその時は……という準備はありました。
ロシア側から反転攻勢を仕掛けなかったのは単にまだ準備が整っていなかったからで、準備が整えば今からでも勝てるし、だったら戦争を終わらせる必要がありません。
これでは非戦派のセルゲイ・ウィッテ氏がロシアの全権代表としてポーツマスを訪れたとて強気の姿勢を崩すわけにもいかず、『戦争を終わらせたいならそうしてやってもいいし、多少の利権はくれてやるが、賠償金? 負けたわけじゃないのに冗談じゃない』という調子。
そこでセオドア・ルーズベルトは日本の交渉団にひとつのアドバイスを耳打ちします。
『ニコライ二世が強気なのは、まだロシアが自らの領土を侵されていないからです。サハリンに侵攻して占領し、交渉の取引材料にしなさい。』
これを受けた日本側では7月にサハリンへ侵攻、乏しい残存戦力をやりくりしながらでしたが、ロシアも強力な守備隊を置かない僻地だったので占領に成功します。
一方、ロシアのセルゲイ・ウィッテ氏にもこのように耳打ちしました。
『日本に南樺太(サハリン南部)だけでも割譲すると言えば、賠償金やそれ以上の領土要求は取り下げますよ。』
実は日本側の方で1904年8月の段階で『もう賠償金や領土をあきらめてもいいから講和条約を結ぼう、国庫がもたん』と判断されており、南樺太が手に入るだけでも上出来でした。
ロシアの方でも自身にとっては僻地である南樺太をくれてやれば、日本は賠償金もそれ以上の領土も求めてこない(元々は樺太全土を要求されていた)のですから、日本から一方的な譲歩を引き出した事になります。
こうしたセオドア・ルーズベルトの立ち回りが功を呈して、ポーツマス条約は1905年9月に締結、日露戦争は『日本側がかろうじて勝利』という形で終結しました。
ニコライ二世は「戦争を続けていれば何も失わず、むしろ大陸から日本を叩き出せたのに!」と地団駄を踏み、日本でも民衆が「あれだけ頑張ったのに賠償金も引き出せないのか! この無能政府め!」と日比谷焼き討ち事件などを起こします。
日露両国とも政府実務者レベルや軍部は安堵しましたが、ひとり笑ったのはセオドア・ルーズベルト大統領で、ポーツマス条約をまとめ上げた功績から1906年のノーベル平和賞を受賞しました。
日露戦争開戦からポーツマス条約まで一貫して日本を支持していたセオドア・ルーズベルトですが、日露戦争後に連合艦隊司令長官・東郷 平八郎の『聯合艦隊解散之辞』に深い感銘を受けたのを最後に、日本に対し次第に冷淡になっていきます。
ロシア海軍を打ち破った日本は気がつけば東洋一の海軍戦力を揃える一方、アメリカ海軍が太平洋に展開できる戦力はあまりに少なすぎました。
また、日本ではポーツマス条約を『アメリカからの干渉』という世論が大勢で、中心的人物となったセオドア・ルーズベルトを憎むようになってしまい、そのうちアメリカが攻めてくるだろうからと仮想敵国に定めてしまいます。
セオドア・ルーズベルトは日本から自らへの酷評を目にし、そしてアメリカの植民地であるフィリピンへの脅威もあって、1907年にアメリカ海軍の戦艦16隻を白く塗って世界一周航海『グレート・ホワイト・フリート』を派遣、日本にも寄港させました。
その後も対日戦争計画『オレンジ計画』を作ったとも言われますが、これは単にアメリカ陸海軍が1904年にケース別戦争計画を仮想敵国ごとに色分けした1つに過ぎず、例えばイギリスならレッド計画、さらに内戦を想定したホワイト計画もあり、特に日本だけ特別に敵視して作ったわけではありません。
それでも太平洋の海軍力強化に乗り出したことや、日本からの移民制限(排日移民法)の策定に乗り出したのは、セオドア・ルーズベルト大統領の時代からで、日露戦争後は明確に反日志向でした。
彼自身は1909年にアメリカ大統領としての任期を終えて1919年にこの世をさりましたが、後の1941年に主に日米が激突した太平洋戦争が勃発した時アメリカ大統領の座にあったのは、親戚のフランクリン・デラノ・ルーズベルト。
どうもこの一族、日本と奇妙な因縁があるのかもしれません。
物心付いた時には小遣いで「丸」や「世界の艦船」など軍事情報誌ばかり買い漁り、中学時代には夏休みの課題で「日本本土防空戦」をテーマに提出していた、永遠のミリオタ少年。
撤退戦や敗戦の混乱が大好物で、戦史や兵器そのものも好きだが、その時代背景や「どうしてこうなった」という要因を考察するのが趣味。
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