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2018/08/22

菅野 直人

空の名兵器・珍兵器『日本最後の傑作機・双発高速戦闘機キ83』

戦前・戦中に日本が開発した多数の試作機は、特殊な実験機を除き、性能が要求仕様に達した上で軍に必要と認められれば量産されます。中には制式採用以前から量産され、結局最後まで制式採用されたか曖昧で終わったキ100(五式戦闘機)、キ102(五式双発戦闘機、あるいは四式襲撃機とも)のような例もあったくらいですが、その高性能が明らかでいながら、たった4機しか作られなかった飛行機もあります。それが陸軍の試作双発戦闘機『キ83』です。







高速遠距離双発戦闘機『キ83』

戦後、アメリカ軍に接収され試験飛行中のキ83
By US Army – http://www.ijaafphotos.com/jbwki831.htm, パブリック・ドメイン, Link

太平洋戦争(第2次世界大戦太平洋戦争)に日本が突入する以前から、『爆撃機を護衛できる航続距離を持った戦闘機』は、日本陸海軍航空関係者の悲願でした。
というより、およそ航空戦力を持つ国の軍関係者にとって重要なことで、ドイツでもメッサーシュミットBf109駆逐機、アメリカでもロッキードP38双胴戦闘機といった双発長距離戦闘機が開発されています。

しかし、そうした双発機は大抵の場合、重量増加に見合う性能を持ったエンジンの開発困難、まだ複葉機時代の名残が残る旋回性能重視、さらには軽快な単発戦闘機との空戦で勝てないという現実もあって、理想とはかけ離れたものでした。
そこで日本では航続距離や滞空時間に優れた単発戦闘機を開発することにして、海軍の零式艦上戦闘機や、陸軍の一式戦闘機『』が生まれます。

結局、どこまで飛ぼうが空戦に勝てないと意味が無いので『航続距離の長い単発戦闘機』がプロペラ機時代の主流になりますが、双発戦闘機も全く無意味というわけではありませんでした。
爆撃機の性能向上で高速化・航続距離延長は進み、やはり双発長距離戦闘機は必要だとされたからです。

こうして1941年5月、陸軍から最高速度650km/h以上、7.7mm旋回機銃座で後方火力として、前方には20mm固定機関砲による強力な武装を誇る、高速長距離双発戦闘機キ83の開発が三菱重工に指示されました。
主目的はもちろん爆撃機の護衛でしたが、その高速性能でもって百式司令部偵察機の後継機へ発展することも期待されていたのです。

意気込む三菱設計陣と二転三転する要求

新司偵(百式司令部偵察機)の後継まで、となると高高度高速飛行も求められるため、三菱では爆撃機用の大型エンジン『ハ104』(四式重爆撃機『飛龍』などに採用)の発展型で、ターボ化(スーパーチャージャーもあるのでツインチャージャー化)した『ハ214ル』を選定。
後に陸海軍共通の決戦用エンジンとなるハ45(海軍名『誉』)より大型なものの、それだけ設計には余裕があり、堅実なエンジン選択と言えました。

しかし、1942年4月に完成審査を受けたモックアップ(実物大模型)は、陸軍からさまざまな要求を突きつけられます。

・視界良好にして索敵を容易にせよ
・これでは空戦に勝てないから小型軽快化(低翼面荷重化)
・主翼面積を小さくして高速化(高翼面荷重化)

つまり、「最初から単発戦闘機を作った方がいいんじゃないか?」という要望な上に、相反する要望まで突きつけられてしまい、頭を抱えることになります。
この頃になると、先に長い時間を掛けて開発し、1942年2月に制式採用はしたものの、戦闘機としては何とも凡庸で期待外れだった二式複座戦闘機『屠龍』の反省もあって、時間はかかってもより飛び抜けた高性能を、という要望が強まったようです。

しかも、三菱が最初のモックアップから設計の再検討をする間にも戦局は変化し、『屠龍』の評判も戦闘機としては使えない、爆弾として襲撃機としてなら、いやいや大型機迎撃には使えると二転三転していきます。
しかも、最初から偵察機への応用は考慮されていたものの、爆撃機にも使えるようにという要求まで加わりました。

実は、新司偵の後継は立川飛行機がキ70を開発していたのですが、これも爆撃機に使えるよう要求した結果、爆撃機としては中途半端、偵察機としては重量過大で鈍足凡庸という失敗作になってしまい、全く同じことをキ83にも押し付けていたのです。

おそらく、実際にキ83を使いそうな全てのジャンル(戦闘・爆撃・偵察)から要望を集めた結果として「結局何がしたいのかよくわからない」要望になってしまったようですが、こうした企画時点からの失敗は当時の日本陸海軍ほとんど全てで共通していました。

とにかく速く、高く、要望には『一応』で応えた割り切り

軍の言うことを真っ正直に聞いていたら頭痛が止まらず、どこかでブチ切れてしまったのかどうか、1943年に三菱が固めた設計案は当時の日本機としてはかなりぶっ飛んでいました。
すなわち、双発長距離戦闘機ではあるものの、とにかく高速性能重視。

後席は準備するものの、偵察など任務に応じて最低限の機内作業ができるのみとして胴体内に押し込み、小さな偵察窓のみで後席用風防など設けず抵抗低減、爆弾はその気になれば積めるものとして真面目に爆撃手席など設けず、実質的に単座高速戦闘機としたのです。

つまり、ターボエンジンで高高度性能・高速性能に不足は無いので、それだけで高高度爆撃も偵察もできますし、高速なら後方からの敵機を気にしても仕方がないので後席用旋回機銃も不要。
天測窓が無かったことから後席から航法は困難で、偵察機として使えなさそうですが、同じ三菱で新司偵を改良して性能向上していたので、それでいいと思っていたのかもしれません(一応、偵察機型はキ95という派生型を作る予定だった)。

爆撃機としても、もう戦争中盤以降になると『命中率はさておき、行って爆弾落として帰ってこれれば上等』という状況になっていたので、これも速ければあまり気にならなさそうでした。
ここまで思い切るには三菱だけで決められないところですが、陸軍側に理解のある人物がいたのかもしれません。

1944年11月に初飛行したキ83は実に優秀な戦闘機で、余裕を持った設計のハ214ルも日本の航空機用ターボエンジンの中では例外的に問題なく動作して高度8,000で最高速686.2km/hを記録し、高高度性能は良好。
武装も30mm砲2門、20mm機関砲2門を機首に束ねた強力なもので、防弾装備や防漏かつ自動消火装置つき燃料タンクも完璧と、高高度を高速で飛来するB-29を相手取るなら、かなり有力な戦力となる素晴らしい高速戦闘機が完成しました。

『最高の双発戦闘機』キ83はなぜ量産されなかったのか?

しかし、キ83はこれだけの高性能を発揮したにも関わらず、試作機を4機作ったのみでついに量産化されることはありませんでした。

その正確な理由は定かではありませんが、エンジンや高速飛行時の尾部の振動が指摘されていたことと、その対策として水平尾翼に支柱を追加していたものの、おそらくはそれによる無視できない性能低下が発生していたことから、その対策が求められたのかもしれません。

増加試作機では支柱以外の方法で尾部を強化する見込みでしたが、昭和東南海地震と空襲で三菱の名古屋工場が壊滅、工場を疎開させているうちに、B-29がもう高高度から飛んでくることも無くなった影響も無視できません。
夜間無差別爆撃に飛来するB-29は3,000m程度の高度から大量の焼夷弾をバラ巻き、硫黄島が陥落してP-51戦闘機が護衛につくようになった1945年6月以降は昼間でも高高度爆撃の必要性が無くなり、もう高高度迎撃戦闘機は不要になっていました。

しかも本土防衛戦では遠くまで飛んでいかなくても敵の方から迫ってきますし、エンジンを2基使う双発戦闘機より、1基しか使わず航続距離は短くとも軽快な戦闘機や攻撃機の方が経済的です。
しかも1944年7月には川崎飛行機の双発複座戦闘機、キ102乙の量産が始まって襲撃機や夜間戦闘機として使われていたので、いくら高性能でもキ83を頑張って生産する必要性が薄かったのかもしれません。

戦後、事故や空襲からも生き残った試作1号機は進駐してきたアメリカ軍による性能試験を受け、アメリカ軍用のハイオクガソリンを使って高度7,000mで762km/hというとんでもない最高速を出しました
これはドイツのタンクTa152H-0が高度12,500mで水メタノール噴射装置を使用、短時間の緊急出力で飛行する速度に匹敵し、アメリカ軍最速のP-51Hより高速で、これがB-29の爆撃が激化した時期にあれば……と悔やまれますが、あとの祭り。

どのみち夜間爆撃を受ければマトモな航空機用レーダーの無かった日本ではあまり役に立たなかった可能性は高いのですが、キ83は『試作で終わったのがもっとも惜しい日本軍機』となりました。

菅野 直人

物心付いた時には小遣いで「丸」や「世界の艦船」など軍事情報誌ばかり買い漁り、中学時代には夏休みの課題で「日本本土防空戦」をテーマに提出していた、永遠のミリオタ少年。
撤退戦や敗戦の混乱が大好物で、戦史や兵器そのものも好きだが、その時代背景や「どうしてこうなった」という要因を考察するのが趣味。

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