- コラム
1945日本降伏せず~南部九州決戦予測『オリンピック作戦』
2018/08/10
菅野 直人
すごいー! たーのしー!
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菅野 直人
1945年8月10日、日本は最高戦争指導会議で昭和天皇の聖断によりポツダム宣言受託を決定、第2次世界大戦での敗戦が確定しました。その後8月15日に玉音放送が流され戦争は終結……するはずだったのですが、14日夜に陸軍の一部がクーデターを起こして玉音放送を阻止しようと決起、『宮城事件』が勃発します。それを鎮圧して戦後日本のスタートに大きな役割を果たしたのが、東武軍管区司令官の陸軍大将、田中静壱でした。
By 不明 – 比島派遣軍報道部編纂 (1943年-六月) 比島派遣軍、日本: 比島派遣軍報道部 Retrieved on 2009年2月24日., パブリック・ドメイン, Link
1887年10月生まれ、1907年に陸士19期(陸軍士官学校第19期)を卒業した田中静壱(たなか しずいち)。
1913年には陸大28期(陸軍大学校第28期)を卒業し、1919年にはイギリスに駐在してオックスフォード大学に留学した日本陸軍のエリートです。
1928年には参謀本部欧米課米班長、つまり対米戦略のエキスパートとなり、1932年にはアメリカの日本大使館で駐米陸軍武官として赴任し、当時アメリカ陸軍参謀総長に就任直後だったマッカーサー(後の進駐軍総司令官)とも親交を持っていました。
その後は歩兵連隊長として第一次上海事変へ、第13師団長として日中戦争に従軍するなど順調にキャリアを積み、憲兵司令官や帝都・東京を含む東日本防衛担当の東部軍司令官などを歴任するエリート中のエリートだったのです。
太平洋戦争勃発で日本が第2次世界大戦に参戦した後、1942年からはフィリピン方面を担当する第14軍司令官でしたが、1943年3月にマラリアとみられる高熱で床に臥すようになり、ついに同年8月、東京の陸軍病院に入院して第一線を外れました。
以降は陸軍大将に昇進しつつも陸軍大学校長を務めるなど『療養配置』でしたが、高齢のため予備役に退いた藤江恵輔 大将の後任として、1945年3月9日、第12方面軍司令官兼東部軍管区司令官に着任します。
この時、田中は57歳であり、マラリア明けの配置としては重責でしたが、戦争末期の苦境を支えるエリート将官だったのです。
しかし、着任したその日に東京大空襲で帝都を半ば焼失、5月にも再び大空襲を受けて帝都・東京を守れず、さらには明治神宮や、炎上した陸軍参謀本部の火の粉が延焼して宮城(皇居)の明治宮殿も焼失するなど、大被害を受けます。
もはやエリート将官ひとりの能力でどうにかなる状況では無く、進退伺を出したものの昭和天皇に遺留されて任務を続けたとはいえ、その責任は田中に重くのしかかっていたのです。
その頃、第2次世界大戦のヨーロッパ戦線で最後まで抵抗していたドイツを東西からの地上部隊により侵攻、ドイツ本土決戦で屈服させた連合国は、1945年7月26日、日本に無条件降伏を迫る『ポツダム宣言』を日本につきつけました。
まだ対日参戦しておらず中立国だったソ連(参戦後に加わる)を除き、アメリカ・イギリス・中国の3カ国から出されたポツダム宣言に対し、日本は是も非も表明せず『黙殺』という対応をとります。
しかし、同年8月6日広島が、9日には長崎が原子爆弾で壊滅、その威力に政府・軍部とも来るべきものが来た(原爆そのものは各国で開発されており、その威力はある程度知られていた)と感じますが、それ以上に打ちのめされたのはソ連の対日参戦でした。
既にシベリア鉄道によるソ連軍の兵力集中状況は知られており、遠からず侵攻が始まる可能性は高いと見られていたものの、同時にまだ中立国だったソ連を仲介とした無条件降伏の回避にも希望を持っていた者は、日本の政府・軍部に多かったのです。
本土決戦で連合軍に大打撃を与えて有利な条件で講和しようなどという構想も、その先にソ連による仲介あってのものでしたが、ソ連の対日参戦で本土決戦を行う意義も失われました。
しかし和平派にとってはとにかく戦争をやめるチャンスであり、ただちに開かれた最高戦争指導会議では、最終的に昭和天皇を加えた徹底抗戦派を『御前会議』として、その聖断によりポツダム宣言受諾がついに決定されたのです。
連合軍へはその日のうちに中立国のスイスおよびスウェーデンを経由して受諾が伝えられ、15日には昭和天皇自らの肉声をラジオで国民に伝える『玉音放送』で、全ては終わるとされました。
この『御前会議』は陸軍なら陸軍大臣と参謀総長などトップ級のみが参加し、帝都を守備範囲に含むとはいえ一介の地方軍司令官に過ぎない田中は関与していませんでしたが、知米派としてアメリカの力を知る田中にとっては、否応無いものだったでしょう。
玉音放送が流れる以前でも、最高機密を知る立場にいた軍人はいたので彼らは激昂しましたが、そもそも本土決戦自体『講和条件を良くするための戦い』つまり最終的な降伏が不可避だったのは明らかだったので、降伏自体に激昂したわけではありません。
その理由は『無条件降伏』によって『国体(天皇制)が保障されない』ことであり、最終的に天皇制は継続したとはいえ、その可否を連合軍に委ねることへの反発が大きかったのです。
「せめて、連合軍に天皇制の存続だけは確認すべきだ。」という反対意見が最高戦争指導会議でも通らず一刻も早い受諾が進められたことで、陸軍の徹底抗戦派はクーデターを決断しました。
『天皇制存続』を確認する、から単純に『綺麗に死にたい』まで理由はさまざまだったと思われますが、ともあれ陸軍参謀本部の一部強硬派と、それに賛同する軍人によって近衛師団を動かし、宮城を占拠する計画が動き出したのです。
彼らは阿南陸軍大臣や梅津参謀総長に賛同を求めたものの拒否され、近衛師団だけでなく上部組織の東部軍管区(第12方面軍)も動かそうと田中に面会を求めたものの、計画を聞いていた田中に一喝されて叩き出されています。
「馬鹿もん! 貴様らの言わんとする事はわかっとる! 帰れ!」
アメリカの力を知る田中にとって抵抗継続は損害を増やすのみで無意味と理解しており、昭和天皇が終わらせると決めた以上は従うべき、が当然でした。
ただし、田中の一喝が悪い方に覚悟を決めさせてしまったのか、それとも正気を失ってしまったのか、叩き出された若手エリート将校の畑中少佐は、その後に他の将校が説得中だった近衛第1師団長、森赳(もり たけし)中将を殺害してしまいます。
そんな事態が起きているとは思わない宮城では、NHK職員によって宮内省で『玉音放送』の録音が行われ、昭和天皇の肉声を収めた『玉音盤』(レコード)は侍従によって、宮内省の金庫に保管されました。
しかし、8月15日午前0時、行動を起こした近衛歩兵第2連隊によって、宮城の封鎖が始まったのです。
近衛歩兵第2連隊は、近衛第1師団長(前述の通り、既に殺害)から発せられたと称する偽の命令で動いていましたが、同じ頃に近衛歩兵第1連隊も放送自体を阻止すべくNHKの放送会館を占領していました。
その後、再度クーデターへの加担を求められた田中は逆にただちに鎮圧することを決め、高嶋参謀長に近衛歩兵第2連隊司令部へ電話させて『師団命令は偽造なので従わないように』と伝達、驚いた芳賀連隊長により反乱将校は追い出されました。
さらに田中は自ら数名の護衛のみで近衛第1師団司令部へ乗り込み、近衛歩兵第1連隊長へ直接「その命令は偽物なので出動中止」を伝えて、NHKの占領も解除。
これでクーデターを首謀していた参謀本部の若手反乱将校は完全に行き場を失い、クーデターはわずか数時間で鎮圧というより「解決」されたのです。
朝6時にはクーデターを知った昭和天皇が「兵士の前に出て話そう」と、自ら説得しようとしていましたが、そうするまでも無く田中の手でクーデターは終わっていたという早業。
その後も無条件降伏に納得せず戦い続けようとする部隊の散発的な『決起』はいくつか起こっており、田中はそのたび『火消し』に走り回りますが、8月24日に起きた『川口放送所占拠事件』の解決が、その最後となりました。
陸軍部隊に占拠されたNHK川口、鳩ヶ谷放送所への送電を止めるように指示し、反乱部隊を説得、投降させる陣頭指揮を取り、短時間で鮮やかに事態を収拾させた田中でしたが、その夜に東武軍管区司令官室で拳銃自決し、世を去りました。
既に復員も始まっている中で『決起』がこれで一段落した一方、帝都を、宮城を守りきれなかった責任をとったと思われます。
鎮圧現場から帰った田中は副官に拳銃の在り処を尋ね、自決と見抜いた副官はトボけようとしますが、田中夫人からも懇願されてついに拳銃を渡してしまった、とのことです。
最後は心臓を打ち抜いて自決した田中でしたが、彼によって『玉音放送』そして『日本の再出発』は守られました。
長い戦争を招いてしまった日本陸軍でしたが、最後は知米派エリート将官・田中静壱大将によって『日本の未来』を守り、消滅したのです。
物心付いた時には小遣いで「丸」や「世界の艦船」など軍事情報誌ばかり買い漁り、中学時代には夏休みの課題で「日本本土防空戦」をテーマに提出していた、永遠のミリオタ少年。
撤退戦や敗戦の混乱が大好物で、戦史や兵器そのものも好きだが、その時代背景や「どうしてこうなった」という要因を考察するのが趣味。
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