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2018/08/15

菅野 直人

終戦10日前完成、日本海軍最後の軍艦~敷設艦『箕面』

第2次世界大戦の終戦時(1945年8月15日)、日本海軍はそのほとんどが壊滅しており、戦時急造艦船を除き大型艦はほとんど計画中止、あるいは途中で建造中止になっていました。その一方で戦争末期になるほど整備も急がれた艦種もあり、中でも最後に完成した『軍艦』が敷設艦『箕面(みのお)』でした。







何を封鎖するのか違うだけ、日米機雷合戦と化した日本近海

太平洋戦争末期、日本中の都市へ爆撃を加えて壊滅させたB-29爆撃機にはもうひとつ重要な任務があり、それが機雷投下でした。

連合軍による日本への主な攻め口は2つあり、1つが都市や軍需工場への空襲による生産力・国力への直接打撃、もう1つがシーレーン(海上交通路遮断)による物資や食料を遮断する間接的な兵糧攻め。
前者はマリアナ戦(サイパン、グアムなど)と硫黄島戦による基地化で本土爆撃開始に目途がつき、後者はフィリピン戦と沖縄戦で南方からのシーレーンを遮断すると共に、潜水艦を日本海にまで送り込んで通商破壊戦を行いました。

しかし、シーレーン遮断については中国大陸や朝鮮半島との交通遮断には潜水艦だけでは十分ではなく、国内航路も遮断しなければ効果的とは言い難かったため、機雷を日本中の港に撒いて封鎖することにしたわけです。
一方、日本側もB-29が撒いた機雷の掃海に苦労しつつ、潜水艦にも対処するため対潜防御用に機雷原の設置を必要としていました。

言わば、日米ともに目的は違えどせっせと日本近海に機雷原を作りまくっていた事になり、戦後も長いこと、海上保安庁や海上自衛隊による掃海活動が続き、冷戦期に海上自衛隊で最高の練度を誇ったのは掃海部隊だと言われたくらいです。

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護衛艦艇と共に急速増備を命じられた敷設艦艇

もちろん日本にはB-29に相当する機雷散布機などありませんでしたから、大規模な機雷原を作るのは通常の水上艦艇が頼りです。
ただ、機雷戦というのは地味な割に戦果を挙げても特定の艦艇や部隊の手柄とは把握しがたく(何しろ損害が機雷なのか魚雷など何か他の別な理由なのか、損害を受けた方もわかりにくい)、花形部署以外は避けられる傾向の強い組織では日陰者の任務になります。

ハッキリ言ってしまえば、日本海軍では国力の限界で艦隊決戦のような『花形任務』以外への予算を回しにくかったので、戦艦や空母、巡洋艦など主力艦艇と必殺の雷撃を行う駆逐艦、後になって航空隊も加わりましたが、それくらいが限度。

必然的に国境海域の漁業保護、シーレーンの船団護衛、機雷敷設や掃海といった任務は『何かのついで』になりがちでしたが、何しろ国力も無いのにアメリカ海軍を仮想敵として迎え撃つ計画でも無ければ予算を削られかねないので、致し方ありません。

そもそも何のための海軍なんだ、という話は本項の主題ではないのでさておくとして、海軍機雷学校の設立は1941年と遅かった上に『きらい(嫌い)学校』と蔑まれたくらいでした(しかも実際は対潜術も含んだので1944年に海軍対潜学校へ改称)。

そんなわけで、船団護衛任務ともども機雷戦についてもあまり熱心と言えず、掃海艇は多数建造したものの実際は船団護衛艦兼務、機雷原を作るための敷設艦(ふせつかん)も整備が進みません。
それでも日露戦争時代の装甲巡洋艦を改造した、大きさだけは立派な敷設艦があったので『軍艦』登録だったのが滑稽でした(日本海軍では正規軍艦の『軍艦』と、駆逐艦など補助艦艇は別枠だった)。

そのため、戦争末期になって慌てて機雷原を作ろうとしても日本近海で行動可能な機雷敷設艦は旧式装甲巡洋艦改造の『常盤(ときわ)』と、商船を改造した特設砲艦の一部がその能力を持っていたにすぎず、急速整備が求められたのです。

終戦直前に完成した敷設艦『箕面』

1946年末から1947年初め、因島で解体直前の「箕面」[1]
By 日本政府復員庁 – 海人社 世界の艦船増刊「日本海軍特務艦船史」 70P, パブリック・ドメイン, Link

こうして戦争末期に慌てて作られた軍艦や補助艦艇には、敷設艦や敷設艇の他に駆逐艦(戦時急造の丁型)や海防艦など船団護衛用の艦艇も多く、大型艦の中でも最後まで建造続行されていた空母『笠置(かさち)』が1945年4月正式に中止されて以降も建造続行中でした。
中には終戦時も建造中で戦後に復員(外地からの帰還)輸送用に完成したものさえあったほどですが、敷設艦として、そして『軍艦籍』にあったものとして最期に完成したのが『箕面』です。

とはいえ、機雷敷設能力を持てばいいので勇ましい戦闘艦の姿はしておらず、見かけは商船(貨物船)そのもの。
それもそのはず、建造中だった戦時急造型の2D型戦時標準船(小型貨物船)を海軍で買収、完成前に改造したため軍艦籍に入っただけの船であり、同型船でも既に竣工していた東亜海運の『永城丸』は特設敷設艦扱いでした。

しかも機雷を積んでいない時は本来の貨物船として使えるよう、デリック(クレーン)は残しており、12cm単装高角砲や25mm対空機銃、電探(レーダー)や聴音器(パッシブソナー)や探信儀(アクティブソナー)があったとて、特設艦艇でもその程度は装備されています。

敷設艦を称するだけはあり、機雷だけは380個と大きさ(満載排水量5,200tで、機雷600個を搭載できる『常盤』の半分程度)の割に積めましたが、計画最高速力11ノットで見た目は小型貨物船でしたから、配属された乗組員の士気やいかに?

これが『帝国海軍最後の軍艦』というのも情けない話ですが、もっと情けないことには大阪浪速船渠で竣工したのが1945年8月5日、何もしないままその10日後には戦争が終わってしまったのです。
同時期に建造されていた(こちらはイチから海軍艦艇として建造)敷設艇『神島(かみしま)』は7月30日に佐世保海軍工廠で竣工後、8月8日には母港横須賀に回航されて終戦を迎えているのに対し、『箕面』が8月15日まで母港の呉まで公開したかも定かではありません。

計画最高速力11ノットに対して引き渡し時の公試運転では9ノットしか出さなかったようですから、一応航行できたことは確かなようです。

復員輸送艦として活動後、『軍艦』なので解体

終戦時、ともかくも完成して海軍籍にあり、空襲などの被害も無かった『箕面』には戦地に出征していた将兵を内地に連れ戻す『特別輸送艦』としての任務が待っていました。

武装を撤去して機雷庫兼貨物室に便乗者用スペースとして、石油が欠乏中でも運航できた石炭専焼のボイラーは石油専焼に変更。
復員輸送に使える外洋航行可能な船は軍用艦艇も民間船舶もほとんど沈められ、連合軍から船を借りなければいけなかった日本では『箕面』のような船でも貴重でしたから、1946年12月まで復員船としてしっかり働いています。

しかしその後の運命がまたツイてないところで、姿形はともかく正規の『軍艦』籍にあったため商船としての再就役が認められず、本職の戦闘艦と違ってどこも賠償艦として欲しがらなかったようで、1947年4月には解体されてキレイサッパリ無くなってしまいました。

あるいは進駐軍の担当者が見ていれば「こりゃ軍艦じゃないでしょどう見ても」と思ったかもしれませんが、単に書類だけ見てサインして終わったのかもしれず、最後までツキの無いフネでした。

菅野 直人

物心付いた時には小遣いで「丸」や「世界の艦船」など軍事情報誌ばかり買い漁り、中学時代には夏休みの課題で「日本本土防空戦」をテーマに提出していた、永遠のミリオタ少年。
撤退戦や敗戦の混乱が大好物で、戦史や兵器そのものも好きだが、その時代背景や「どうしてこうなった」という要因を考察するのが趣味。

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