- コラム
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菅野 直人
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菅野 直人
第2次世界大戦日本軍のパイロットで著名な人物は数多くいますが、戦時中から軍神として大きく取り上げられ、映画になったりそれが部隊名の通称にすらなったようなビッグ・ネームとなると、加藤建夫陸軍中佐(戦死後、少将に2階級特進)をおいて他に無いのでは無いでしょうか。エースパイロットや名隊長と呼ばれる人物は他にもいた中で、なぜ彼が?
By 東宝 (Toho) – Screenshot, パブリック・ドメイン, Link
エンジンの音 轟々と 隼は往く 雲の果て……日本陸軍飛行第64戦隊の隊歌であり、軍歌『加藤隼戦闘隊』であり、そして戦時中に東宝により製作・公開された同名の映画主題歌でもあった歌の、出だしです。
第2次世界大戦中、正式にはその名が公開されなかった海軍の零式艦上戦闘機(「わが新型戦闘機」として新聞紙面に載ったのは実に末期の1944年)とは異なり、戦争初期の1942年3月には『新鋭陸鷲、隼』として新聞で紹介された名機、陸軍の中島一式戦闘機『隼』。
その名の由来は前述した64戦隊の隊歌であり、実は同隊が九七式戦闘機から一式戦闘機に機種改変する以前に作られた歌でしたが、結果的には第2次世界大戦初期に、名隊長のもと奮闘した64戦隊の活躍が、そのまま一式戦闘機の愛称となった形です。
戦闘機の愛称、軍歌、映画と戦意高揚の元になった全ての原動力となったのが、戦死後は『軍神』として2階級特進して陸軍少将となった名隊長、加藤 建夫 陸軍中佐でした。
数々のエース(撃墜王)や優れた指揮官を擁した陸軍航空隊にあって、その代表的存在として別格となった加藤 建夫 中佐とは、どのような人物だったのでしょうか。
By Amagiri – 東洋経済新報社、監修陸軍航空本部 『軍神加藤少将写真伝記』 1943年, パブリック・ドメイン, Link
1911年に日本初の動力飛行が行われ、1914年には第1次世界大戦開戦時のドイツ極東方面根拠地だった青島(チンタオ)攻略戦のため、初の実戦部隊投入を実現した、日本陸軍航空隊。
1915年以降正式な『航空大隊』が編成されるようになり、次第に規模を拡大して、1925年には独立した『航空兵科』が誕生して、歩兵や砲兵など他兵科からの転科を受け入れ始めます。
そしてその年の7月に陸軍士官学校37期を卒業、見習士官を経て10月に歩兵科で任官したばかりの1人の新品少尉が早速航空兵へ転身、陸軍航空兵科初期のエリートとしての道を歩み始めるのですが、それが加藤 建夫 陸軍航空兵少尉でした。
翌年から所沢の陸軍飛行学校で操縦を学んでパイロットとなり、卒業時には技量・成績ともに優秀とされ、1937年に始まった日中戦争では飛行第2大隊の第1中隊長として従軍。
空で散った敵味方双方へ哀悼の花環を空中投下したり、中華民国空軍の飛行場へ、敵軍パイロットへの敬意と挑戦の意を表した挑戦状を投下するなど、既に当時から爽やかなエピソードの多い人物です。
1939年に陸軍大学を卒業、将来の陸軍航空を背負って立つエリートコースに乗ると、既に第2次世界大戦の始まっていたヨーロッパへの視察団に随行し、メッサーシュミットBf109の操縦桿を握る機会を得るとともに、ドイツ空軍の思想を学んで帰国します。
日中戦争時には愛機に撃墜マークを率先して書き込む士気高揚策に熱心だった加藤でしたが、1941年4月に古巣である64戦隊(飛行第2大隊から、加藤が陸軍大学に去っていた1938年に改編)の戦隊長に赴任すると、ドイツ空軍への視察の成果を発揮しだします。
元より陸軍の航空兵は夜間飛行や空戦能力の向上には熱心でしたが、遠い前線に進出するための長距離航法技術や、それによる雲上飛行、洋上飛行、そして空中電話を使った編隊空戦といった、それまで陸軍航空隊が苦手としていた戦技を猛訓練で64戦隊に叩き込みました。
さらに、ヨーロッパ派遣以前、陸軍航空本部の部員時代にはそのコンセプトに懐疑的だったキ43(一式戦闘機)への機種更新が決まると、むしろ率先して一式戦闘機への隊員の信頼性を高めるため努力を始めます。
一式戦の限界を極めた機動を自らこなしてみせたり、まだ信頼性に不安があり、機首に2丁装備された機関銃のうち、1丁のみの装備が多かった新型の12.7mm機関砲を愛機には2丁装備させるなど、何事も『率先』を良しとしたのです。
第2次世界大戦に日本が参戦してからの出撃でも当然『指揮官戦闘主義』で、開戦時38歳と既に戦闘機パイロットとしてはかなり高齢だったにも関わらず、一式戦ならではの長距離出撃を若手とともに1日2度こなすことも珍しくありません。
さらに、撃墜マークを書き込んで誇示するなど個人的な戦功稼ぎは厳に戒め、『戦闘機の任務で一番大事なのは爆撃機の護衛』という主義を貫き、敵の戦闘機を追いかけ爆撃機に損害を出すと、戦隊全員の大目玉を食らわせるほどでした。
そうした加藤戦隊長の思想が戦隊全員に浸透したことや、実際にあらゆる作戦で護衛対象を含め最小の損害で最大の戦果を上げていったことで、64戦隊と加藤戦隊長の名声は大いに高まっていきます。
新聞紙上での活躍の紹介や、一式戦闘機への愛称が『隼』となる過程には、名指揮官・加藤 建夫の存在が大きかったのです。
しかし、先にも書いた通り当時の戦闘機パイロットとしては高齢だった加藤にとって、いかに指揮官先頭主義とは言え連日の出撃は過酷なものでした。
通常、実戦では中佐の戦隊指揮官など重要な作戦で士気高揚のため出陣する『刺身のツマ』(無いと締まりが無いが、実際の味には関係無い)程度のものなのですが、加藤は部隊に過酷な出撃スケジュールを強いる代わり、可能な限り自分も出撃。
しかも必要とあらば自ら敵機を攻撃して撃墜、あるいは追い払いつつ、空中電話を積極的に活用して戦場上空でも編隊空戦の指揮をとって、部下から絶大な信望を得ていたのです。
もちろん、高齢の加藤がそれをものともしない肉体だったわけでもなく、繰り返される長距離出撃に若手は腰が痛いと音を上げる脇で、「若いモンが痛むのに、この老兵が痛まぬわけもないわ」と、虚勢を張ることもなくボヤき、それでも出撃しました。
それゆえか、加藤戦隊長の最期は思いもよらぬタイミングで、なおかつ思ったほど早くやってきます。
1942年5月22日、まだ緒戦からの激戦続くビルマ戦線で飛行場を襲撃したイギリス空軍のブレニム軽爆撃機を迎撃した加藤戦隊長機は、敵機後方銃手の巧みな反撃で燃料タンクに被弾、僚機の見ている前でベンガル湾に突っ込み、還らぬ人となりました。
洋上で燃料タンクをやられ、帰還不能なことを悟っての自爆というのが定説ですが、連日の出撃で疲労したことによる肉体的、あるいは精神的な限界だったのではという説もあります。
いずれにせよ、戦死時点までの陸軍航空、そして緒戦の大勝利への貢献度が非常に大きかったことには疑いなく、『陸軍航空部隊の至宝の死』として個人感状とともに二階級特進、陸軍から正式に『軍神加藤少将戦死』と発表されて、日本でもっとも有名な戦闘機パイロットとなりました。
『軍神加藤』を失った後の64戦隊はその後もビルマで奮闘を続けて終戦まで『隼』で戦い、連合軍のいかなり新型戦闘機が登場しても一歩も引かない『奇跡的』とすら呼ばれる活躍を続けて、仏印(ベトナム)のクラコールで終戦を迎えています。
その活躍ぶりもさることながら、『軍神加藤戦隊長』が存在したことや、隊歌の軍歌化、そして映画化により、後年まで64戦隊は『加藤隼戦闘隊』とした知られることになりました。
物心付いた時には小遣いで「丸」や「世界の艦船」など軍事情報誌ばかり買い漁り、中学時代には夏休みの課題で「日本本土防空戦」をテーマに提出していた、永遠のミリオタ少年。
撤退戦や敗戦の混乱が大好物で、戦史や兵器そのものも好きだが、その時代背景や「どうしてこうなった」という要因を考察するのが趣味。
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