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2018/06/22

菅野 直人

哀しみの急造攻撃機『剣』出撃せず

第2次世界大戦末期、戦争を終わらせる機会を得られないまま急激に終末を迎えようとしていた大日本帝国では、1945年秋には始まるであろう本土決戦に向けた戦力の温存と、簡易的な兵器による戦力の整備を進めていました。特攻兵器も数多く作られましたが、中には最初は特攻を前提としなかったものの、結果的に特攻兵器として整備されたものもあり、特殊攻撃機』もそのひとつです。

本土決戦のため続々揃えられる特攻兵器

1944年、6月には日本本土を直接爆撃可能なB-29爆撃機の発着基地となりうるマリアナ諸島が、10月には日本本土と南方資源地帯を結ぶシーレーン(海上交通路)を遮断可能なフィリピンに連合軍が侵攻し、いずれも占領または制圧されました。
フィリピンではルソン島などで陸軍が終戦まで頑張ったものの、それはただ『降伏せず抵抗を続けている』だけであり、連合軍の基地化を食い止めるものでは無かったのです。

こうなればもう日本は丸裸も同然な上に、戦争遂行に必要な資源を船舶で運ぶこともほぼ不可能になり、南方に取り残された部隊との連絡すら困難となって、後はただ連合軍がいつどこから日本に攻めてきて、これを滅ぼすかという段階になりました。

ならば勝負はもうついたようなもので、戦争などさっさとやめてしまえば良いというのは後世から見た常識で、当時の実情から言えば、ヘタなタイミングで降伏しようと言い出した日には、徹底抗戦派によるクーデターと内戦勃発でさらに泥沼になりかねません。
その状況で取り得る手段は、『戦争終結のタイミングを図りつつ、徹底抗戦派による内戦に陥らないよう、本土決戦の準備は進めておく』以外に無かったと言えます。

実際、ポツダム宣言受諾による降伏が決定した時、徹底抗戦派によるクーデターで危うく玉音放送ができなくなるところでしたから、早期終戦がかなり困難な状況だったのは確かでした。
その中で、本土決戦のためとして1945年6月の沖縄戦終結以降は本格的な反撃は控えて戦力温存が図られると同時に、特攻以外での反撃は困難として多数の特攻兵器が作られます。

急造爆撃機を作ろう

キ115 剣
By 不明https://www.flickr.com/photos/sdasmarchives/7586042080/in/set-72157630610709398, パブリック・ドメイン, Link

1945年1月、中島飛行機三鷹研究所で、ある攻撃機の設計が始まりました。
当時の三鷹研究所ではB-29迎撃用の高高度迎撃戦闘機キ87の設計を終え、後は機体製作と初飛行、それに伴う実戦投入を可能にするための改良などは残っていたものの、一時的に手が空いている状態だったのです。

そこで新機種の設計に着手することになりましたが、キ87のように1942年から3年越しで設計するような、最新技術の粋を詰め込んだような機種を作っても戦争には間に合わないことが明らかで、ならば設計も生産も運用も簡素な急造機を作ろうという案が出ました。

とにかく今ある物資と部品を使えて、本格的な生産設備や熟練工が無くとも素早く生産でき、未熟な搭乗員でも飛んでいって爆弾を落とし混乱させる程度で良いので、とにかく早くまっすぐ飛んで爆弾を落として帰ってくるだけでいい

このような非常に割り切ったコンセプトに基づき、風洞試験すら『今までの設計経験だけで詰めるから不要』としたので、設計開始から2ヶ月とたたない1945年3月5日には『特殊攻撃機キ115』の1号機が完成するという、文字通りのスピード製作でした。

剣は特攻機にあらず

基本コンセプトからして『行って爆弾を落として混乱させるだけでいい』と割り切ったので爆撃照準器など無く、出撃して適当に敵らしきところへ爆弾を落とし、帰ってきても普通の着陸はせずに胴体着陸してエンジンは再利用。
つまり特攻機ではなく帰還前提だったのですが、いざ飛ばしてみるとマトモに操縦して『行って落として帰ってくる』だけでも大変な飛行機ということがわかりました。

しかし、元からそうした不具合があっても時間をかけて改修する前提では無いので、もはやどうしようもありません。
おまけに三鷹研究所も爆撃目標になったので岩手県に疎開することとなり、キ115の設計はそれっきり、量産のため用意された部品で105機ほど作られ、陸軍で『(つるぎ)』、海軍で『藤花(とうか)』として使われることにはなりました。

では何に使うかと言えば、一度飛び立ったが最後、飛行し続けるのが困難で帰還など望むべくも無いけれども、とにかく爆弾を抱いたまま、あるいは投下後にそのまま突っ込むことはできるだろうと、特攻機として配備されます。
そのため、後世には『追い詰められた大日本帝国が窮余の一策として開発した急造の特攻専用機』として記憶されることになってしまいました。

しかし、基本コンセプトで説明したように本来は特攻専用機ではなく、純然たる攻撃機です。
着陸方法がマトモでは無かったとはいえ帰還を前提としており、実際初飛行前に神主(の資格を持っていた工場職員)が祈祷を行った際にも、帰還を前提としない特攻機として捧げられた祝詞に、設計者が反論して取り消したエピソードも残っています。

特攻機以外の運用はありえたか?

しかし、設計時から帰還前提とはいえ、実際にそのような『特攻以外での運用』は可能だったのでしょうか?
エンジンこそ、陸軍一式戦闘機『』や海軍の零戦用にストックされていた、旧型ながら新品エンジンを確保できたのと、戦闘機では無いので旋回性能を犠牲にしても高速性能を狙ったので、工作が面倒な空力処理を行わなくとも500km/h台の速度は出せました

それで離陸してからとにかくまっしぐらに敵を目指し、『だいたいこのへん』と照準もつけずに爆弾を落とすだけなら、後は戻って胴体着陸さえ成功すれば、ソコソコの帰還率を実現できそうにも思えます。

しかし、当時の陸軍にも海軍にも『離陸して真っ直ぐ飛ぶことができる』パイロットすら貴重になっており、ましてや飛ぶだけでなく上空から敵を見つけるどころか、最初から敵の位置がわかっていてもそこまでの航法がおぼつきません。

そんな技術を持っているパイロットならもっとマトモな飛行機(零戦など)に乗るべきであり、そうでなければ仮に何もかもうまくいったとして、胴体着陸はおろか、落下傘(パラシュート)降下に成功する可能性すらほとんど無かったでしょう。

となれば、爆弾を積めばヨロヨロとしか飛べない練習機よりはマシな特攻機として使う以外の可能性は、最初から無かったとも言えます。
それでもわずかな可能性に賭けて、『特攻以外にも使える飛行機を作った』というのは、技術者の意地だったのでしょうか。

温存されて迎えた終戦

Ki115 tsurugi at pima space museum.jpg
By Sekinei投稿者自身による作品, CC0, Link

結局、生産された『(あるいは藤花)』は、1度も出撃せず本土決戦に向けて温存されたままだったと言われます。

さらに、甲乙丙とサブタイプがあったと言われたので追加生産の計画があった可能性もありますが、おそらくこれはエンジン違いか何かで、例えば機関砲や通常の着陸が可能な車輪を追加するなどの派生型では無かったはずです。
(※剣はエンジン選択に冗長性を持たせた、つまりある程度サイズや重量が合えば他のエンジンも容易に装着可能だったと言われていますが、三鷹研究所では具体設計を行っていません)

1945年3月末に壬生飛行場(栃木県)から出撃したという証言もあるようですが、初飛行から1ヶ月以内とはさすがに出撃させていいかの判断すらできていないでしょう。
おそらくは、同じ空冷エンジンを搭載した特攻機が沖縄戦の前哨戦として始まった九州沖航空戦のため移動したか、あるいは剣が何らかの理由で移動したなどを目撃されたのが、『剣の出撃』と誤認されたのかもしれません。

いずれにせよ、特殊攻撃機『』は少なくとも公式には特攻機として使われる事なく終戦を迎え、アメリカの国立航空宇宙博物館や日本のつくば国立博物館に保存されています。

菅野 直人

物心付いた時には小遣いで「丸」や「世界の艦船」など軍事情報誌ばかり買い漁り、中学時代には夏休みの課題で「日本本土防空戦」をテーマに提出していた、永遠のミリオタ少年。
撤退戦や敗戦の混乱が大好物で、戦史や兵器そのものも好きだが、その時代背景や「どうしてこうなった」という要因を考察するのが趣味。

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