- コラム
氷山を使って空母作る!?常識を疑うトンデモ兵器「氷山空母」!
2018/07/1
Gunfire
すごいー! たーのしー!
2018/06/15
菅野 直人
北朝鮮やイラン、シリアなどで現在も大量破壊兵器-核兵器や化学兵器、細菌兵器など一撃で多大な効果を発揮する-の保有やその廃棄を巡っての外交的あるいは経済的、時には軍事的手段を用いた駆け引きが行われています。しかし、そううまくいくのでしょうか? 今回は、現在までに大量破壊兵器の放棄に成功した実例を紹介します。
By User:Ribbon – 投稿者自身による作品, GFDL, Link
1945年8月6日、広島市の上空で初めて実戦投入された原子爆弾-核爆弾-が炸裂して以来、人類は『大量破壊兵器』を強く意識するようになり、その管理や拡散防止に努力するようになりました。
大量破壊兵器そのものは薬品などを使った化学兵器、病原菌などをバラまく細菌兵器などが核兵器以前から存在し、中でも化学兵器は紀元前の昔から使われています。
松本サリン事件(1994年)や地下鉄サリン事件(1995年)で悪質な宗教団体による化学兵器テロが行われた日本など、核兵器による被害と合わせて意外にも世界でもっとも記憶に新しく身近な存在かもしれません。
しかも、核兵器にせよ化学兵器にせよ細菌兵器にせよ、最小限の戦力で最大限の効果を発揮する上に、その被害が生じるまで大量破壊兵器が使われるかどうか区別がつきにくい(それゆえ、弾道ミサイルの発射など普通は滅多に行うものではない)という特性を持ちます。
それゆえ、内戦や他国との戦争で大量破壊兵器を使用しそうな国がそれを保有することには国際社会は厳しい目を向けており、通常戦力で大抵の国へ対抗可能な超大国を除けば、可能な限りそれを放棄させようとしてきました。
それに成功した代表例を紹介しましょう。
By L’Américain (talk) – 投稿者自身による作品, パブリック・ドメイン, Link
2003年12月、北アフリカのリビアは突然、核兵器など大量破壊兵器の『即時かつ無条件での放棄』を表明しました。
これはアメリカやイギリスとの約9ヶ月におよぶと言われる秘密交渉を経ての成果でしたが、北朝鮮やイラン、イラク、シリア、キューバと並び、当時のアメリカ・ブッシュ政権から『悪の枢軸』に位置づけられていたリビアの豹変に、世界中が驚いたものです。
独裁者のカダフィ政権下にあった当時のリビアは反欧米・反イスラエルの急先鋒で、軍事的手段からテロ活動支援まで手段を選ばず、ハイジャックやシージャック、旅客機などの爆破テロなどを支援していました。
おまけに地中海に面するシドラ湾へ一方的な領海宣言を出し、自由航行を宣言するアメリカの空母機動部隊へ戦闘機を差し向けては返り討ちにあい、テロ支援が許せないとカダフィを狙った空爆まで行われるなど、特にアメリカに対して激しく敵対していたのです。
その一環として進められていたのが核兵器など大量破壊兵器の開発でしたが、1992年以降は国際的な経済制裁を受けて困窮を極め、2000年代に入ってからは交渉に応じるようになります。
米英との秘密交渉の内容は不明ですが、最終的に無条件の即時放棄を表明したところからすると、『無条件放棄以外は一切認めない』と、極めて強硬な態度でリビアに臨んだはずです。
この『無条件降伏』と過去のテロ支援への謝罪(国家として関与していないが、リビアの公務員が行ったのは事実と認めた)によって、テロ支援国家指定と経済制裁の解除を受けたリビアは国際社会へ復帰しますが、結局2011年のリビア内戦でカダフィ政権は崩壊。
北朝鮮に対する核放棄要求でも話題になる『リビア方式』の顛末はこのような次第で、北朝鮮へも即時無条件の核放棄を要求していたはずですが、権威の低下も意味するためか、かなり強く反発されていました。
By Paul Weinberg – direct donation from Author, CC 表示-継承 3.0, Link
おそらく核兵器を開発しているはずだとみなされ、実際に核兵器を開発、実験にまで成功していながら、1989年に核放棄を行ったのが南アフリカ共和国です。
もともと、南アフリカには良質なウラン鉱山もあったので核技術に近い存在であり、当初は原子力発電所など平和目的でスタートしました。
しかし、冷戦期に強烈な反共政策を採用、同時に極端な人種差別政策『アパルトヘイト』のため国際的孤立下にあったため、独自に核戦力の開発と配備を開始。
その背景には、秘密協定による(裏での)友好国イスラエルとの共同開発があったとも言われますが、1977年には起爆装置の開発に成功したところで、米ソからの圧力で核実験の中止を迫られ、その時は断念します。
しかし、1979年9月22日にアメリカの大気圏内核実験監視衛星『ヴェラ・ホテル』が南アフリカ沖のインド洋で『二重の閃光』を確認。
その実態は現在に至るまで不明とされていますが、これが南アフリカ単独、またはイスラエルと共同での核実験だったと見られています。
結局、後に公開された情報で南アフリカは実際に6個の核爆弾を生産したことを明らかにしましたが、なぜそれを放棄したのでしょうか?
1つには冷戦終結でソ連やキューバから周辺諸国への支援が止まり、国土防衛の危機感が去ったこと。
もう1つより重要なのは、1989年にアパルトヘイト政策の廃止に向けて動き出したことで、将来確実に誕生するであろう『黒人政権に核兵器を持たせたくない』という、同国白人勢力最後の抵抗という、何とも同国らしい理由がありました。
冷戦時代、南アフリカなりに国土防衛のため核兵器を開発し、その必要性の減少と人種差別的な理由で廃止したという、「勝手に作ってある日突然廃棄した」印象を受けます。
しかし、基本的には核兵器以前にアパルトヘイト政策を原因とする経済制裁を受け、『国際的孤立からの回避』を目的にした政策変更の結果、核兵器も廃棄に至ったという意味で、根底にあるものはリビアとそう変わりません。
1991年、湾岸戦争に敗北したイラクは停戦決議で大量破壊兵器の不保持を義務付けられ、UNSCOM(国際連合大量破壊兵器廃棄特別委員会)からの査察を受け入れることになりました。
当初は事前通達を行ってから査察を行っていたのでイラク(当時はフセイン政権)も受け入れていましたが、「事前通知していたら意味が無いだろう」と抜き打ち査察方式に変更すると、イラクは途端に査察に対して非協力的になります。
何だそれは、隠すなんて怪しいぞとアメリカを中心に騒ぎ出し、「これはもうあると思わざるを得ない」として、ついに2003年3月19日、アメリカやイギリスなど有志連合がイラクに侵攻し、イラク戦争が始まりました。
それまでの経済制裁や飛行禁止区域の設定、それに違反したとみなされた時の懲罰的空爆でイラクの正規軍はすっかり弱体化しており、有志連合は圧勝に次ぐ圧勝、アメリカの機甲師団は退却するイラク軍すら追い越してバグダットに入城、5月1日には戦闘終結宣言が出されます。
もっとも、それは単に正規軍同士の戦闘が終わりフセイン政権が崩壊したというだけの話で、2018年6月現在に至るまでイラクでは不正規武装勢力(ISILなど)による小規模な戦闘が絶えません。
それはともかく大量破壊兵器ですが、これが困ったことに全く見つかりませんでした。
査察をさせないのだから、直接探れば出てくるだろうと考えていたかどうかはともかくアメリカやイギリスは大弱りでしたが、現在では2つの説があります。
1つは、「ISILなど不正規武装勢力が、弱体化していたイラク当局を襲って奪った」というもので、後のシリア内戦でアサド政権による「反政府軍が化学兵器を使った」と主張する論拠のひとつになっているように思えますが、確証はありません。
もう1つは「国内の反政府組織や国外の敵対勢力への圧力保持のため、本当に無いと思われては困るから抜き打ち査察を拒否した」というもので、この説はかなり有力なものとして信じられています。
実際、UNSCOMですら保有には否定的だったので、後者の説が正しかった場合、「イラクのフセイン政権はハッタリが効きすぎて国ごと滅ぼされた」という、しょうもないオチがつくのでした。
ただし、実際問題としてそれまで大量破壊兵器の存在をチラつかせて恫喝的な態度を取っていた国にとって、それが無いと判明してしまうのは、死活問題なのも確かです。
北朝鮮についても、地下核実験施設の爆破に際し「外からしか見せなかったので、中は本当は何だったのかわからない」「放射能検知器を持ち込めなかったので、残留放射能の有無が不明だった」という問題があったばかりでした。
案外、「放射能を全く検知できないというのも変な話なので、実は核兵器なんて最初から無いんじゃないか」と言われて大事なカードを失うのを、恐れてのことかもしれないなどとは、考えすぎでしょうか。
物心付いた時には小遣いで「丸」や「世界の艦船」など軍事情報誌ばかり買い漁り、中学時代には夏休みの課題で「日本本土防空戦」をテーマに提出していた、永遠のミリオタ少年。
撤退戦や敗戦の混乱が大好物で、戦史や兵器そのものも好きだが、その時代背景や「どうしてこうなった」という要因を考察するのが趣味。
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