- コラム
ミリタリー偉人伝「常勝じゃなければただの変態?ロシアの奇人元帥スヴォーロフ」
2018/07/23
菅野 直人
すごいー! たーのしー!
2018/06/11
菅野 直人
核兵器とは厄介な放射能汚染を起こす一方、純粋にその威力も絶大なものがあり、同じ威力を通常の爆薬で行おうと思っても現実的でありません。とはいえ、いわゆる『通常爆弾』にも現実の限界に挑戦したような超大型爆弾が実在し、第2次世界大戦中に実戦投入されました。
By Unknown – Original publication: Unknown
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1939年9月1日にドイツがポーランド侵攻を開始、それまでナチスドイツの拡張政策(と言っても第1次世界大戦で割譲された部分も含めた、いわゆる『大ドイツ』復活がメイン)を容認していたイギリスやフランスも我慢の限界に達してドイツに宣戦布告。第2次世界大戦の始まりです。
それからすぐに、『敵の重要拠点を超大型爆弾で破壊し、戦争遂行能力を失わせる戦略爆撃』についての論文を提出した、1人の技術者がいました。
それがヴィッカース社の設計技師であり、ウェズレイやウェリントンなどの爆撃機に、生産に手間がかかる代わり、非常に頑丈な『大圏構造』を飛行船からの応用で採用していた、バーンズ・ウォリス博士です。
ウォリス自身、爆撃機の設計者だったこともあって、その超大型爆弾を運搬する『Victory Bomber(勝利の爆撃機)』を開発することまで提案していました。
彼の構想が画期的だったのは、爆弾の直接的な効果、すなわち爆風や断片によるものではなく、地中まで突き刺さった爆弾が炸裂することによって生ずる衝撃波を利用した『地震爆弾』を提案したことです。
水中にせよ地中にせよ、爆風を生じさせることは爆発物の威力を拡散してしまうものであり、第2次世界大戦中には魚雷を舷側では無く艦底で起爆させることで、より大威力を発揮させる効果が実装されます。
ただ、ウォリスの構想した『地震爆弾』を実現するには過去に例の無い超大型爆弾でないと望むような衝撃波(地震波)を発生させられず、そしてその超大型爆弾を運ぶ超大型爆撃機は無かったため、『Victory Bomber』の同時開発も要求したのです。
しかし、第2次世界大戦開戦当時のイギリス爆撃機といえばウェリントンなど双発爆撃機ばかりでエンジン4基の重爆撃機は第1弾のショート スターリングが初飛行したばかり。
ウォリスの構想では5機の『Victory Bomber』でドイツの発電所やダム、鉱山を破壊してしまえば戦争などすぐケリがつく予定でしたが、彼が構想するような最大100tの爆弾を搭載可能な爆撃機の実現は難しいものでした。
結局、スターリングに続くハンドレページ ハリファックス、アブロ ランカスターは通常の4発爆撃機として開発され、『Victory Bomber』は実現しませんでしたが、計画そのものは地道に続けられ、戦後に巨人旅客機ブリストル ブラバゾンを生み出します。
(ただしブラバゾンそのものは経済性が悪く、どの航空会社も採用しませんでした)
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技術力や資源という限界を超えられな方ウォリス博士の案でしたが、スケールを大幅に縮小して部分的に実現されることとなりました。
その第1弾が1943年5月17日に行われたドイツのダム破壊作戦『チャタイズ作戦』です。
これは最新鋭のイギリス4発爆撃機の傑作、アブロ ランカスターでダムを破壊しようというもので、ドイツがこの種の攻撃に魚雷を使われるのを恐れ、ダム湖に防雷網を敷設してしまったために、爆弾を使うことになりました。
ただし、爆弾を直接ダムの壁にぶつけても爆発力は大気中に拡散してしまう上に、垂直に近い壁面に爆弾を突き刺すのも容易では無かったため、ダム湖側に落とした爆弾を壁面ギリギリに沈め、衝撃波でダムを破壊する方法が採用されます。
その際、爆弾をただ投下するだけでは水中を斜めに進み、手前から投下したのでは防雷網に引っかかり、ギリギリで投下しては十分沈まないうちに衝撃で起爆してしまう問題がありました。
そこで、爆弾層の中でドラム缶型の大型爆弾を前回りに回転させ、水切り石の要領で防雷網をスキップして飛び越えさせる大型の反跳爆弾を用いて、飛び跳ねながらダム壁面に達した頃には勢いを弱めた爆弾がそのまま壁面に沿って湖底に沈み、そこで爆発させることに。
その反跳爆弾『アップキープ』を開発したのが、ウォリス博士でした。
出撃した第617飛行中隊は、特殊な改造を受けて超低空飛行によるスキップ・ボミング(反跳爆撃)を可能にしたランカスター爆撃機を装備、機内で回転を与えていた『アップキープ』の投下に成功し、ルール川のメーネ・ダム、エーデル・ダムの破壊に成功したのです。
これによってダム下流への洪水被害とダムの発電能力を奪い、復旧までに125箇所の軍需工場を操業停止に追い込みました。
ちなみにこの攻撃を実行した第617飛行中隊には『ダムバスターズ』の名が与えられ、現在もイギリス空軍初のFー35B飛行隊として現在です。
さらにウォリス博士は、『Victory Bomber』とまではいかないまでも、ランカスター爆撃機に搭載できる現実的なサイズの超大型爆弾開発に取り組みます。
その成果が1944年に開発した5t爆弾『トールボーイ』で、従来の爆弾が威力を高めるため可能な限り外殻を薄く、爆薬などを多く詰め込んでいたのに対し、硬い高張力鋼で外殻を作り、その硬さと質量、高高度から投下された際の速度をもって貫通力を高めていました。
ランカスターの性能限界により、『トールボーイ』を搭載すると本来要求された高度40,000フィート(約12,000m)まで上昇できず、25,000フィート(約7,600m)からの投下が限度でしたが、それでも恐るべき威力を発揮します。
初使用は1944年6月8~9日に行われたソミュール鉄道トンネルへの爆撃で、トンネル直上の地表に命中した『トールボーイ』は18mもめり込んでから炸裂、同トンネルの完全破壊に成功しました。
以降も分厚いコンクリート製の天蓋に覆われたUボート用ブンカー(退避壕)やV2ロケット発射基地、V3長距離砲、ダムなど重要目標を次々と破壊した『トールボーイ』ですが、さらに重要な目標を指示されます。
それが、イギリスからソ連に援助物資を運ぶ船団にとって脅威であり続け、ノルウェーのフィヨルド(入り江)から出撃しなくともグランド・フリート(イギリス本国艦隊)の多大な戦力を拘束していた『北海の女王』ドイツ戦艦ティルピッツ攻撃でした。
度重なる空母艦載機による攻撃や、X艇(小型潜航艇)による艦底爆破でも撃沈に至らず修理されていたティルピッツですが、『ダムバスターズ』と第9飛行中隊のランカスターによる数度に渡る攻撃で1944年9月に1発が命中、大破させて外洋航行不能に追い込みます。
さらに同11月には『トールボーイ』3発を直撃、1発が至近弾となって、ついに屈したティルピッツは転覆全損となりました。
その後も1945年5月のドイツ降伏まで、『トールボーイ』は主に『ダムバスターズ』の手によって次々とドイツの要所を破壊して回っています。
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ランカスター爆撃機が『トールボーイ』を搭載しての作戦能力を持つことが判明した時点で、ウォリス博士はさらにランカスターの限界に挑戦するようなスケールアップ版を開発。
それが10t爆弾、正確には22,000ポンド(約9.9t)爆弾の『グランドスラム』です。
さすがに『グランドスラム』を搭載したランカスターの上昇高度はさらに落ち、22,000フィート(約6,700m)に制約されましたが、威力はさらに絶大でした。
完成したのは1945年に入ってからなので使われた期間はわずかでしたが、例によって『ダムバスターズ』が運用した『グランドスラム』は、1945年3月14日の初攻撃でビーレフィルト鉄道陸橋を地中からの衝撃波で破壊。
ブレーメン近郊のバレンティンブンカー攻撃では最大7mのコンクリートを貫通して破壊するなど、凄まじい猛威を発揮しました。
なお、この種の頑丈なコンクリート構造物は、戦後も『解体が非常に困難』とされて放置、あるいは別用途に転用されて現存するほど強固なものであり、それを破壊するグランドスラムの威力が伺えます。
1945年5月8日のドイツ無条件降伏でヨーロッパ戦線は終了しましたが、まだ太平洋戦線では大日本帝国が最後の抵抗を続けていました。
1945年秋から開始予定だった日本本土決戦に向け、イギリス空軍も『タイガーフォース』と呼ばれる対日空軍を編成、『ダムバスターズ』も高温多湿地域での使用を考慮した改造を加えられたランカスターを装備し、『タイガーフォース』に加わります。
つまり、日本本土決戦が実際に行われていれば、まだ生産数が少なく「ここぞ!」という場面にしか使えなかった原子爆弾に代わって、『ダムバスターズ』が『グランドスラム』を使って日本のダムやトンネルなど戦略的要衝を破壊していた可能性が高かったのです。
具体的には、まず上陸作戦が行われる予定だった南九州への増援を防ぐため、沖縄から出撃して関門海峡トンネルを破壊する予定だったと言われています。
さらに戦局が進んで関東上陸作戦が行われた場合、日本の文字通り最後の砦、長野県の『松代大本営』を破壊するのに使われたかもしれません。
実際には1945年8月15日に日本も無条件降伏を受け入れ、『ダムバスターズ』と『トールボーイ』や『グランドスラム』が日本でその猛威を振るうことも無く終わりました。
なお、バーンズ・ウォリス博士はその後も技術者として、戦後も長い間活躍。
可変後退翼の熱心な信奉者となったり、ロケット推進魚雷の開発、潜水貨物船や小型超音速旅客機などを提案していずれも採用されないという、何ともイギリス人技術者らしい一風変わった活躍を見せ、1979年に92歳でこの世を去りました。
物心付いた時には小遣いで「丸」や「世界の艦船」など軍事情報誌ばかり買い漁り、中学時代には夏休みの課題で「日本本土防空戦」をテーマに提出していた、永遠のミリオタ少年。
撤退戦や敗戦の混乱が大好物で、戦史や兵器そのものも好きだが、その時代背景や「どうしてこうなった」という要因を考察するのが趣味。
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