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気が付けばNHK大河ドラマ「八重の桜」(2013年)から5年もたちまして、もうそろそろ皆さん、幕末から明治にかけて活躍した女傑の記憶も薄れている頃では無いでしょうか? もう桜も咲き始めましたし、幕末のアマゾネスにして明治日本のナイチンゲールなど、時代の変化に応じたさまざまな顔を持つ彼女を振り返ってみましょう。
出典:NHKドラマ
2013年1月6日から12月15日まで放送された、NHKの大河ドラマ「八重の桜」を覚えていますか?
代々、会津藩で砲術師範の家系である山本家の長女として生まれた八重(やえ・綾瀬はるか演)が、当時としては珍しいほど活発かつ怪力を誇る女性だったこともあり、女だてらに一流の砲術士(当時、銃を扱うすべは“砲術”と呼ばれていた)になります。
しかし時は幕末、当時の会津藩は桑名藩ともども末期の江戸幕府から京都守護を仰せ付けられ、兄の会津藩士、山本 覚馬も騒乱が続く京都で、決して裕福ではない会津藩が財政危機に瀕しつつ、どうにか京都守護職を全うすべく尽力していました。
大政奉還により江戸幕府が崩壊後も、旧幕府軍と新政府軍による日本最後の大規模内戦、戊辰戦争が勃発、鳥羽・伏見の戦いや江戸(東京)周辺での敗北を経て、ついに新政府軍は旧幕府側で大きな勢力を誇った会津藩の本拠地、会津若松に迫ります。
徹底抗戦の道を選んだ会津藩は、火力で押し切る新政府軍に絶望的な防衛戦を行いますが、司令部にして最後の要塞、鶴ヶ城で戦う将兵の中に、兄・覚馬から贈られた最新のスペンサー銃で戦う八重もいました。
戊辰戦争敗戦後、市井の女に戻った八重は京都に移住して教師となり、再婚した夫とともに学校を経営、さらに看護婦に転じて日清・日露戦争では従軍看護婦として活躍します。
1人の女性の生涯に焦点を当てたドラマは数多くありますが、これほど多彩な活躍を示した女性を描いたものは、かなり珍しいのでは無いでしょうか?
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ドラマでは多少の脚色、さらに強調したい部分以外はだいぶ端折られてはいましたが、大筋において山本 八重、後の新島 八重の生涯はドラマで描かれた通りと言われます。
まるで創作のような生涯ですが、えてして「事実は小説よりも奇なり」と申しますから、激動の時代には、平時の創作など及びもつかないような人生があるということでしょう。
劇中でもあったように、当初は女が持つ武器として薙刀(なぎなた)を扱いましたが、山本家が会津藩の砲術師範で、幼い頃から鉄砲のある日常で育ったこともあって、薙刀や日本刀、槍より遠くから敵を倒せる砲術こそ戦の決め手と考えたのは、不思議ではありません。
ましてや「女もいざとなれば薙刀を持って戦うべし」とされていたのですから、同じ戦うにしても、撃ち方さえわかれば力の弱い女性でも屈強な男性を倒せる鉄砲を選んだのは、合理的発想というべきです。
それでも、鉄砲自体が日本刀や槍と同格の「武士の魂」だった時代において、女性がそれに触れること自体が問題ある時代でしたが、砲術の家系だったことで砲術(射撃術)に磨きをかけることができました。
東北人、ことに福島県やその周辺地域の出身者であれば知ってのとおり、戊辰戦争での会津防衛戦は、農民など動員されなかった民間人を除けば、それこそ女子供まで動員した「総力戦」で戦われました。
劇中では男性に混じって断髪・男装で従軍していますが、砲術のできる女性が少なかったとなれば、薙刀を持った女性部隊ではなく男性とともに鉄砲隊で戦ったのはその通りでしょう。
新政府軍よりやや旧式とはいえ、種子島(火縄銃)を持ち出すほど近代化に乗り遅れていなかった会津藩で、八重は最新のスペンサー連発銃で戦い、必要があれば夜襲などにも加わったと思われます。
とはいえ鶴ヶ城は崩壊こそしなかったものの、その形が変わるほどの砲撃を受けて制圧され、その際に会津藩士の男性は新政府軍の捕虜となり、最初の夫ともそこで生き別れとなりました。
八重も従軍していたので捕虜となっていてもおかしくないところですが、正式な士卒(藩士)では無かったので、単なる従軍民間人として武装解除されるにとどまったようで、一時米沢藩士の元に身を寄せています。
なお、その後も太平洋戦争敗戦に至るまで、結果的に戦闘に巻き込まれることはあったにせよ、日本人女性が正規軍の一兵士として活躍した例は皆無です。
それゆえ「幕末のジャンヌ・ダルク」と呼ばれることもありますが、指導者や士気を高揚する象徴的存在では無く、むしろ一兵士として高い戦闘力を誇ったことから、「幕末のアマゾネス」とでも考えた方がシックリきます。
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明治時代に入ってから、新政府に捕縛されてそのまま京都に留まっていた兄・覚馬を頼り上京、教師となって再婚するなど、明治の女性としての道を歩みつつも、単なる家庭の主婦としての道は歩みませんでした。
教師としても人間として自立する女性の教育に力を入れていた八重は、むしろ後のウー・マン・リブ(女性解放運動)の先駆者と言えたかもしれません。
二人目の夫、新島 襄(にいじま じょう)とともに後の同志社大学・同志社女子大学の原型となる学校を作りますが、夫が1890年(明治23年)に急逝してしまうと、残された夫の門下生とはソリが合わず、同志社からは手を引いていきます。
二人の夫といずれも戦乱や病没により心ならずも離別するなど、パートナーが運に恵まれなかった八重ではありますが、元々男勝りの女傑だったこともあり、逆境にめげずに新たなる活躍の場を見つけていきます。
そしてそれは、一度は離れたはずの戦場から縁遠くない場所でした。
新島 襄が病没した年、八重は発足間もない(1887年に博愛社として設立後、1887年に改称)日本赤十字社の正社員となります。
その頃の赤十字はあくまで国際紛争時に敵味方を問わない人道支援組織でしたが、1888年に八重の故郷・会津からもほど近い福島県の磐梯山が山体崩壊を伴う大噴火を起こした際、日本赤十字は国際的に前例の無かった国内災害派遣を行いました。
あるいはそれを知っての日本赤十字入社だったかもしれませんが、ほどなく1894年には日清戦争が勃発、明治日本が直面した初の大規模な対外戦争において明治天皇はじめ議会や大本営など政治・軍事の中枢が広島に仮移転します。
八重も広島に趣いて赤十字としての本来の任務、陸軍予備病院の看護婦としての任につきましたが、40人の看護婦をとりまとめ、看護のみならず看護婦の地位向上にも尽力した八重は、「明治のナイチンゲール」となっていました。
かつては砲術を活かして敵の命を奪う側だった「幕末のアマゾネス」から、今度は敵味方を問わず命を救う側への転身は、まさに激動の人生というほかありません。
1904年に始まった日露戦争でも、60歳近いながら今度は大阪で看護婦として従軍し、それらの功績により勲六等宝冠章を授与されました。
その後はさすがに一線を退きますが昭和時代まで長寿を誇り、1932年に86歳で死去した時には、かつて疎遠となっていた同志社による社葬が行われています。
幕末から明治まで激動の時代を生きた女傑は、その晩年となる大正と昭和初期、ようやく京都で穏やかな日々を過ごせたようです。
物心付いた時には小遣いで「丸」や「世界の艦船」など軍事情報誌ばかり買い漁り、中学時代には夏休みの課題で「日本本土防空戦」をテーマに提出していた、永遠のミリオタ少年。撤退戦や敗戦の混乱が大好物で、戦史や兵器そのものも好きだが、その時代背景や「どうしてこうなった」という要因を考察するのが趣味。
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