- コラム
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菅野 直人
旧日本陸軍の戦車と言えば、やれブリキ缶だヤスリで削れるだ、たとえ中戦車でも米軍の軽戦車にも負ける(これは事実)とひどい言われようですが、もちろんそんな戦車ばかり作っていたわけではありません。量産こそかなわなかったものの、ドイツやソ連はともかく、米英の戦車に対抗できる程度の重戦車はあったのです。
By 日本陸軍 – 出版協同社、1978年、原乙未生 監修、竹内昭 著 『日本の戦車』 p143, パブリック・ドメイン, Link
1916年に歴史上初めて「戦車」が実戦投入されてからわずか2年、横浜港に陸揚げされたイギリス製のMk.IV戦車が日本初の戦車でした。
その後も第1次世界大戦の終結で余剰となった戦車を輸入して戦車部隊を編成するなど日本での戦車史は意外と列強各国に遅れておらず、1927年(昭和2年)には国産の試製1号戦車を完成させます。
これは第1次世界大戦で主に戦われた塹壕戦(互いに長距離の塹壕を掘って突破させないよう対峙しあう戦線)において、塹壕突破に用いられるため開発された戦車のコンセプトそのままでしたが、中国大陸や対ソ戦で想定された広大な平地の戦場には向きません。
そこで一旦は八九式軽戦車(後に重量増加で中戦車)が開発、配備されますが、敵が有力な戦車などを持ちだした時に不安を感じ、試製1号戦車以来の重戦車を開発しました。
こうして1931年に採用されたのが九一式重戦車で、主砲は八九式中戦車同様の57mm砲を暫定装備後、強力な70mm戦車砲へ換装し、機動力も試製1号戦車よりは向上しています。
ただし、実際にこれを中国大陸で使うかどうかとなれば、中国軍や地方の軍閥で重戦車を持ち出さないと対抗できない戦車やトーチカがあったわけでもなく、むしろ逃げる敵を機動力で追いかけるような戦いばかり。
そうなるとそもそも使用する機会も無いということで、本車は試作1両で終わりました。
By 日本陸軍 – 出版協同社、1978年、原乙未生 監修、竹内昭 著 『日本の戦車』 p141, パブリック・ドメイン, Link
九一式からしばらくして、世界的にちょっと流行した「多砲塔戦車」を日本でも作ってみようという動きが始まります。
多砲塔戦車は複数の砲塔と機関銃塔を備えて用途ごとの使用、あるいは全周に死角無く警戒、攻撃を行おうというコンセプトですが、重量を砲塔や銃塔に取られて装甲防御などに回す重量が減るので、最終的にはあまり流行らなかったものです。
試製1号戦車は九一式重戦車も主砲塔のほかに機関銃塔を持った一種の多砲塔戦車でしたが、1935年に制式採用された九五式重戦車は九一式をベースに、37mm戦車砲塔を車体前部に追加した上で、装甲防御は強化、当時の水準では十分に重装甲重火力でした。
しかし、試験結果は重戦車としての性能良好とされたものの、やはり中国戦線での機動戦には不向きとされて試作4両のみで生産は終了。
生産された九五式のうち1両は自走10cmカノン砲「ジロ車」へ、もう1両も自走12cmカノン砲(名称不明)へ改造され、第2時世界大戦末期に日本本決戦に向けた整備が行われたと思われるものの、詳細はハッキリしていません。
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これは中戦車であって、重戦車じゃないだろうと思うかもしれませんが、戦闘重量30tの四式中戦車は同26tの九五式重戦車より重く、戦前基準なら立派な重戦車です。
というより、戦車の発達で装甲や火力が強化された結果、寸法はともかく重量が増加してかつての重戦車を追い抜いたということ。
日本陸軍では九七式中戦車や九五式軽戦車に対戦車戦闘任務も与えていましたが、ノモンハン事変で遭遇したソ連戦車の火力が強力だったこと(装甲防御はそれほどでも無かった)や、第二次世界大戦やドイツによる対ソ戦でT34が登場したことで、戦車の見直しが図られます。
とはいえ確たるコンセプトがあったわけでもなく、「とにかく武装と装甲を強化して敵戦車が登場しても困らないようにしよう」程度で、武装も当初は長砲身57mm戦車砲程度でした。
しかし、各戦線からの情報が集まり、日本の戦車では続々登場する連合軍の新型戦車に対抗が難しく、短砲身75mm砲を装備した一式砲戦車や三式中戦車でも十分でないとみなされ、四式中戦車の火力も75mm戦車砲へと強化されます。
溶接砲塔の製造がうまくいかないなど問題はあったものの、カタログスペック通りなら火力、防御力、機動力のバランスに優れた「主力戦車」になりそうでしたが、結局終戦までに2~6両が完成したのみで終わりました。
パブリック・ドメイン, Link
四式中戦車と並行して、さらに装甲防御を強化、副砲として車体前面に37mm戦車砲を追加した五式中戦車が開発されます。
本格的な開発にかかった1944年頃となると、もはや実用時期に外地へ運ぶ余力も無いため輸送能力はそれほど考慮されず、35t級以上の事実上、重戦車と呼べる中戦車となっていました。
ただ、1945年3月に車体が完成した時点でもはや開発続行して量産しても本土決戦に間に合う見込みは無く、量産予定は前述の四式中戦車のみ。
五式は最終的にどうなったかといえば、車体と砲塔がほぼ完成したものの主砲は結局搭載されず、完全な姿を一度も表すことなく、陸軍最後の戦車は終わったのでした。
By Imperial Japanese Army – http://www.ww2incolor.com/forum/showthread.php/15390-About-the-Experimental-Superheavy-Tank-O-I, パブリック・ドメイン, Link
日本陸軍重戦車史の「花形」としてよく登場するのが超重戦車オイで、正式には「オイ車」(オは大型戦車のオで、イはイロハのイ、つまり一番最初の重戦車という意味)。
近年になって資料の「発掘」が相次いで全貌が次第に明らかになりましたが、それ以前には100t説、120t説、150t説、それぞれ全部作ったなど、いろいろな説がありました。
実際に作られたのは1943年に製造された150t超重戦車オイで、15cm榴弾砲を主砲として搭載、戦場近くまで鉄道などで分解して運んで組み立て、敵の強力な陣地へ重装甲を活かして接近、強力な火力でこれを吹き飛ばすという構想です。
ただし、30t程度の戦車でも持て余す当時の日本陸軍では分解しても輸送能力は疑問な上に、それだけ重い車両を走らせたこともありません。
そこで試作車は砲塔や武装を搭載しない、なるべく軽い状態(これが100t説や120t説につながったかも)で走行試験を行いましたが、それでも路面を破壊しサスペンションや転輪は次々に脱落。
過去の俗説にあった「走ろうとすると地面を掘り返すばかりで埋まり、腹がつかえて動かなくなった」ほどひどくは無かったものの、とてもではありませんが戦闘重量で走らせようなどと考えられる代物では無かったのは確かです。
結局、「とても実用は無理」と即断されて、材料の無駄とばかりに1944年春にはたった1両のオイ車は解体されてしまったのでした。
飛行機や軍艦では綿密な計算の元、せめて飛行や航行に支障が生じない程度に設計されてから実物が作られるものですが、オイ車の場合は何か「その場の思い付きで作った大道具」それも演劇というよりコントのそれが思い浮かぶような、ただの無駄遣いにしかならなかったのが不思議です。
物心付いた時には小遣いで「丸」や「世界の艦船」など軍事情報誌ばかり買い漁り、中学時代には夏休みの課題で「日本本土防空戦」をテーマに提出していた、永遠のミリオタ少年。撤退戦や敗戦の混乱が大好物で、戦史や兵器そのものも好きだが、その時代背景や「どうしてこうなった」という要因を考察するのが趣味。
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