- コラム
潮岬沖海底深くに眠る、突貫工事の未完成超兵器。日本海軍最後の超空母「信濃」
2018/04/18
菅野 直人
すごいー! たーのしー!
2017/12/11
菅野 直人
その姿は海上に無くとも、海中から獲物を虎視眈々と狙う海中の狙撃者、潜水艦。水上艦やその艦隊のように目立たないことから、前線から遠く離れた場所で商船や輸送船を攻撃し、後方のかく乱や補給線の破壊に威力を発揮しますが、時には戦艦や空母など「大物食い」に成功する例もあります。今回は第2次世界大戦以降、大物食いに成功した潜水艦5隻を紹介。
1939年9月1日にドイツ軍はポーランドへ侵攻、これに対してイギリスとフランスはただちにドイツへ宣戦布告、第2次世界大戦が勃発します。
ポーランド侵攻が世界大戦まで引き起こしたのはドイツのヒトラー総統にとって大誤算でしたが、始まってしまったからには戦わなければなりません。
特に面倒なのが世界第2位の戦力を擁するイギリス海軍で、世界大戦への準備が不足していたドイツ海軍は、唯一対応可能な水上艦や潜水艦による商船撃沈作戦「通商破壊戦」を可能にすべく、イギリス海軍をその根拠地で撃破する作戦を立てました。
いわば「タラント空襲(イギリス海軍によるイタリア海軍根拠地奇襲)」「真珠湾攻撃(日本海軍によるアメリカ海軍への同作戦)」のドイツ版のようなものですが、イギリス海軍主力艦隊“グランド・フリート”の根拠地はイギリス北部のスカパ・フロー。
空母機動部隊も無く、スカパ・フローへ届く有力な長距離攻撃機も持たないドイツにとって、唯一可能な手段は泊地へ潜入した潜水艦による決死の攻撃でした。
ドイツ潜水艦隊司令官、カール・デーニッツ提督に選ばれたギュンター・ブリーン大尉は資料を検討して志願を決め、彼の乗艦U47を深夜に浮上したままスカパ・フローへ突入させます。
しかしスカパ・フローでは前日に大型艦の大部分が出撃してしまっており、おかげで警戒が手薄なため潜入に成功したU47でしたが、目標の少なさに落胆しました。
それでも気を取り直して戦艦ロイヤル・オークに合計7本の魚雷を発射、最初の5本は外れたり故障したりで有効打にならなかったものの、最後の2本は同艦の艦底で磁器信管がみごとに作動!
夜中に不意を突かれたロイヤル・オークはたちまち浸水による傾斜と大爆発で沈没、第2次世界大戦における戦艦の沈没第1号となりました。
なお、U47が属するUボートVII型潜水艦はわずか700トン級の小型潜水艦ながら信頼性の高い傑作艦で、U47以外にもU331が1941年11月25日にイギリス海軍の戦艦バーラムを地中海で撃沈しています。
1941年12月8日に太平洋戦争が始まり、ついに第2次世界大戦は全世界を巻き込んだ戦いになります。
1942年後半、南太平洋戦線では日本とアメリカによる制海権争いが続いていましたが、その最中である同年9月15日、最前線のガダルカナル島東方で哨戒を行っていた日本海軍の伊19(伊号第十九潜水艦)が多数のスクリュー音を探知しました。
潜航中だったのでそのまま潜望鏡で確認したところ、空母1隻を含む米空母機動部隊と判明、襲撃を試みて追尾を開始。
空母機動部隊は本来、巡航速度でも当時の潜水艦が発揮可能な水中速度よりはるかに高速でしたが、潜水艦を警戒していたジグザク航行のため追尾は不可能では無く、やがて艦載機を発艦させるため空母「ワスプ」が進路を風上に立てた時、勝負は決しました。
わずか900mという至近距離で伊19から発射された魚雷は3本がワスプに命中!
艦載機の発艦作業中だったことが仇となり、搭載していた爆弾や給油中だったガソリンに引火して数度の大爆発を起こし、30分ほどで総員退艦が発令、ワスプは数時間後に沈没しました。
しかし伊19の戦果はそれだけに留まりません。
日本海軍が誇る長距離大威力の酸素魚雷「九五式魚雷」はワスプに命中しなかった3本が引き続き航走を続けており、約1万メートル先で航行していた空母「ホーネット」の機動部隊に達したのです。
ホーネットは辛うじて回避したものの、戦艦ノースカロライナと駆逐艦オブライエンに命中!
ノースカロライナは損傷修理に3か月かかる大損害を受け、オブライエンもその場での沈没は免れたものの、修理のため回航中に艦体が折れて沈没しました。
ホーネットの機動部隊は伊19でも探知していなかったため全くの偶然でしたが、一撃で空母1隻、駆逐艦1隻を撃沈、戦艦1隻を撃破する大戦果を上げたのは、世界各国の潜水艦の中でも伊19くらいです。
1944年10月、フィリピン奪還作戦を開始したアメリカ軍に対して日本軍は捷(しょう)一号作戦を発動、来襲したアメリカ軍の大艦隊と上陸作戦を撃滅すべく、残された戦力をつぎ込み猛攻を繰り広げます。
しかし結果的に日本の陸海軍航空隊および海軍連合艦隊のほとんどを失う大敗北を喫し、フィリピン陥落は時間の問題となりました。
生き残った連合艦隊の主力艦はブルネイ泊地で休息後、次の戦いへ備えるべく日本へ帰還しようと出航しますが、台湾沖に達した11月21日、アメリカ海軍の潜水艦シーライオンがこれを捕捉します。
その時、日本へ向かっていたのは戦艦大和、長門、金剛の3隻で、レイテ沖海戦での損耗や継続中の作戦支援のため残置したことにより、護衛はわずか軽巡洋艦1隻と駆逐艦6隻のみ。
しかも台風による悪天候で、損傷していた軽巡洋艦「矢矧」は艦隊から脱落、駆逐艦2隻も護衛任務を解かれ、戦艦3隻を守るのはわずか駆逐艦4隻、それも台風の波浪で航行がやっという状態です。
そのチャンスを逃さなかったシーライオンは自らも悪天候に悩まされながら魚雷6本を発射、駆逐艦「浦風」に1本が命中して轟沈、戦艦「金剛」にも2本が命中します。
「金剛」では当初被害が楽観視されていたもの、1913年の就役から30年が経って老朽化していた上に、レイテ沖海戦で受けた3発の至近弾で艦体に亀裂が入っていたため予想外の大浸水を生じ、命中から約2時間半後に転覆、沈没しました。
大戦果を上げたシーライオンですが、この時発射した魚雷のうち4発には、1941年12月にフィリピンのマニラで日本軍機により大破、後に爆破処分された先代「シーライオン」に爆弾が命中した時犠牲になった4人の乗組員の名が刻まれていました。
大戦果の陰には、先代「シーライオン」で犠牲になった乗員による、仇を討ってほしいという執念があったかもしれません。
前項の「金剛」「浦風」撃沈の時に護衛で生き残った駆逐艦3隻「雪風」「磯風」「浜風」には、さらに過酷な運命が待ち構えていました。
1944年11月21日に「金剛」が撃沈された後、同24日に呉軍港へ到着して「大和」が残り、引き続き「長門」を護衛して25日に横須賀軍港へ入港しますが、休む間も無く最新鋭空母「信濃」の護衛を命じられました。
「信濃」は大和級戦艦3番艦を建造途中で改造した超大型空母で、同19日に一応就役はしたものの未だに機関や武装が完成しておらず、空襲の危険が迫っていると判断されていた横須賀から脱出、呉で残工事を進めようとしていたのです。
同28日に横須賀を「信濃」を護衛して横須賀を出航した3隻の駆逐艦ですが、レイテ沖海戦以来の疲労が限界に達していたところでアメリカ海軍の潜水艦「アーチャーフィッシュ」がこれを捕捉しました。
壊滅した日本海軍によもやこんな大物がまだ残っているとは思わなかった「アーチャーフィッシュ」の艦長は、最初「信濃」をタンカー、次いで中型空母「隼鷹」だと思い込んでいましたが、近づくと未知の巨大空母だと気づき、興奮を抑えつつ魚雷6本を発射。
うち4本が命中、未完成な上に工事中で浸水への対処がままならない「信濃」はたちまち大傾斜、「金剛」を失ったばかりの駆逐艦3隻の目の前で沈没しました。
一方、思わぬ大戦果を上げた「アーチャーフィッシュ」でしたが、「信濃」の存在を連合軍は全く知らなかったため「未知の巨大空母を沈めた」と言っても信じてもらえず、その正確な戦果が認定されたのは第2次世界大戦終結後のことです。
最後は一気に時代が流れて1982年。
なぜかといえば、第2次世界大戦が終結した1945年以降、潜水艦が撃沈戦果を上げたのは1971年12月、第3次インド・パキスタン戦争でパキスタン海軍の潜水艦「ハンゴール」がインド海軍のフリゲート艦「ククリ」を撃沈したくらい。
潜水艦を持っている国が有力な目標となる艦船や潜水艦を持っている国と戦争をする、ということがあまり無かったのです。
それがようやく起きたのは1982年3月に南大西洋の果てで始まったフォークランド紛争で、イギリス海軍の原子力潜水艦が数隻派遣されました。
それらの任務はイギリス海軍空母機動部隊などフォークランド諸島奪還艦隊の護衛、および有力なアルゼンチン海軍機動部隊の監視、必要とあらば攻撃というものです。
4月30日にそのうちの1隻、原子力攻撃潜水艦「コンカラー」がアルゼンチン海軍の巡洋艦「ヘネラル・ベルグラノ」を捕捉。
ただし、イギリスはアルゼンチンと全面戦争を行う気は無く、あくまでフォークランド諸島奪還のみを目指していたため、通告した封鎖海域に入らない限りこれを攻撃しないつもりでした。
ところが、同海軍の空母「ベインティシンコ・デ・マヨ」を中心とした機動部隊も出撃しており、これを含め3つの艦隊に包囲されかけていると判断したイギリス軍上層部は「コンカラー」に「ヘネラル・ベルグラノ」の撃沈を命令。
「コンカラー」の発射した3発の魚雷は2発が命中し、わずか3分後に「ヘネラル・ベルグラノ」は沈没。
護衛の駆逐艦2隻が全く気づかなかったほど一方的な戦いでしたが、この撃沈劇でアルゼンチン海軍は自らがイギリス海軍に対抗不可能と悟り、以後フォークランド諸島周辺の制海権はイギリス海軍が握り続け、紛争の行く末を決めました。
仮にこの攻撃が無ければ、「ベインティシンコ・デ・マヨ」の艦載機によるイギリス艦隊攻撃という「第2次世界大戦以来の空母決戦」が起きる可能性もありましたが、そのような攻撃を許さない決意を示したのが「コンカラー」の一撃だったと言えます。
その一撃が原子力潜水艦としては唯一の、そして第2次世界大戦以降では最後の「潜水艦による撃沈戦果」となりました。
物心付いた時には小遣いで「丸」や「世界の艦船」など軍事情報誌ばかり買い漁り、中学時代には夏休みの課題で「日本本土防空戦」をテーマに提出していた、永遠のミリオタ少年。撤退戦や敗戦の混乱が大好物で、戦史や兵器そのものも好きだが、その時代背景や「どうしてこうなった」という要因を考察するのが趣味。
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